「韓信の股くぐりって知ってるか?」



昔々、中国に「国士無双」とうたわれた人物がいた。
「国士無双」は「天下に並ぶ者がいないほどの優れた人物」という意味だ。

その人物の名は、韓信。
漢の天下統一の際、大きな功績を残した武将である。

韓信は若い頃、街のゴロツキにケンカを売られた。


「お前の腰にさしている刀は飾りか?

それが飾りじゃないっていうんなら、俺を斬ってみろ。

それができないなら、俺の股の下をくぐれボケ」


ひどい罵倒を受けたが、韓信は迷うことなく股の下をくぐった。

韓信には大きな志があったからだ。

韓信には将来成し遂げるべき大きな志があった。
目の前のゴロツキを斬ってしまったら、それが台無しになってしまう。

韓信は自分の志のため、チンピラの股の下をくぐるという屈辱を受けることを躊躇することなく選んだのである。


* * *


さて、話は現代に。

もう7年以上前の話だが、僕は横浜駅前を歩いていた。

横浜駅西口のドンキホーテ。

ここは横浜のスカウト達がたむろする場所だが、当時の僕はそんなことは何も知らなかった。
オシャレな街だと思っていた横浜に危険な場所があるなんて、思ってもいなかったのだ。

彼女と待ち合わせをしていたのは夜だった。

「20時にドンキホーテの前で会おう」

それだけ伝えて、家を出た。
彼女は時間を守る人で、時間がくる前に待ち合わせ場所にいた。

彼女の律儀さと誠実さが、後の不幸の原因になったのかもしれない。

少し遅れて待ち合わせ場所に着くと、彼女は怪しげな男に絡まれていた。

なんだこれは......?

とにかく、彼女を守らねば...!

僕はすかさず、怪しげで貧乏そうな男と彼女の間に割り込み、


「連れなんでやめてください」


と男を引き離した。

我ながら「なんてカッコイイんだろう」と思った。

迷わず彼女を守ることができたのが誇らしかった。

彼女を連れて横浜伝説のラーメン屋「吉村家」へと向かった。
家系ラーメンの総本山である。

手をつなぎ、星を見て、笑い合い、幸せな将来を思い描き、話していた。

「次は横浜のみなとみらいに行きたいね」などと笑いながら話した。

幸せだった。

どうして僕はまっすぐ明るい道を歩かなかったのだろう。
下心があったのかもしれない。

少し外れた横道に入ったそのとき、


「おい」


と後ろから声が聞こえた。


「ん?」

振り返ると、数分前に彼女に絡んでいた男が立っていたのである。


「お前、俺をナメてんのか?」


「え?」


男は怒っていた。


「お前、俺を突き飛ばしただろう」



男は言いがかりをつけてきた。



「お前、ぶっ潰してやるから、事務所に来いや」



男はしきりに「事務所」に連れて行こうとしていた。

僕は「事務所」の響きに心の底からビビっていた。
まさか、ヤクザに拉致されてしまうのか?

こいつまさか...闇金ウシジマくん...?

その男自体は僕よりも20センチほど身長が低く、それほど強大な戦闘力は感じない。
もしかしたら戦えば勝てるかもしれない。

しかし...。

もしこいつが服を脱いで、刃牙みたいな肉体を持っていたらどうすればいいのか。

確実に殺されてしまう。

もしかしたら銃を持っているかもしれない。
撃たれたら死ぬ。

それだけは避けなければならない。
僕には生きて成すべき志があるのだ。


おとなしく謝るしかないと判断した。



「すまない」


「あぁ!?」


「悪かった。俺が悪かったよ」


「誤って済むと思ってんのか?」


「彼女の前でカッコつけたかったんだ。許してくれないか」


「許さねぇよ。お前、ちょっと来いよ」


何度謝っても男の怒りは冷める様子がない。
彼が求めているのは謝罪の言葉ではなく、屈辱を晴らすことなのだ。


「わかった、警察を呼ぼう」


「うるせぇよ、事務所来いってんだよ!」


彼の怒りを鎮めるすべはなかった。
僕は謝罪し続け、彼は怒り続けた。

今にも殴ってきそうだった。


そのときである。

彼女が大声で怒鳴った。


「信じらんない!何あんた!

サイテー。ほんとサイテー。

どっか行ってよ、馬鹿じゃないの!?」


俺はiPhoneから警察に電話をしようとしているときだった。

彼女の怒りに男は若干、たじろいでいた。

「あ、あぁ!?」


「信じらんない!ちび!どっか行ってよ」


お、おい.........大丈夫か?


あ、警察に電話つながった。

「もしもし警察ですか」

男がチラリとこっちを向いた。

「ちっ」


「次会ったらぶっ殺すからな」


漫画のような捨て台詞だった。
次に会ったらぶっ殺されるなら、二度とこの辺には近づかないようにしようと思った。

僕は彼女に守られたのだ。

次に会ったら殺される予定だったが、幸いにも現在に至っても彼とは再会できていない。
元気にしているのだろうか。

「ぺっ」

男は道に唾を吐き、去っていった。

帰り際にビルの壁を蹴飛ばしていた。
壁はビクともしなかったし、あんなに強く蹴ったら痛いだろうな、と思った。


彼女はずっと黙っていた。
一言も話さずに、吉村家のラーメンを食べていた。

「ら、ラーメン、うまいね...」


「......」


「ダシがサイコー!」


「.........」


彼女からは返事がない。
まるで屍のようだ。


ラーメンを食べ終わる頃、彼女はおもむろに口を開いた。



「...情けない」


「え?」


「情けない!」


彼女は涙を流した。

僕がチンピラに平謝りしていたことを心底情けないと感じていたようだ。

箸を持つ手がふるふると震えていた。


僕は静かに諭した。



「...お前、韓信って知ってるか?」


「昔の中国に、天下に並ぶ者がいないほど優れた武将がいたんだ。彼には志があった───」

僕は冒頭の韓信のストーリーを説いた。

僕が本気になれば、あの程度のチンピラは一撃のもとに沈めることができる。

しかしやらなかった。
なぜか?

大きな志があるからだ。
僕のメガトンパンチでチンピラが死んでしまったら、僕は逮捕されてしまう。

大きな志を成し遂げるためには、こんなところでつまづくわけにはいかない。

韓信の話をした後、孫正義のように目を輝かせながら志について語った。


「あの謝罪は俺の志だ。

頭を下げながら、心の中で舌を出していればいいんだ」

決まった───と思った。
なんて良いこと言うんだろう。

天から孫正義が憑依してきたと思った。

完璧なプレゼンテーションだった。
正義はまだ生きてるが。


しばらく黙って話を聞き、彼女は言った。



「いや、めっちゃビビってたじゃん。

韓信っていうか、小心者だよ」



その夜、彼女が股を開くことはなく、一週間後に僕は振られた。
僕の韓信が再び彼女の股をくぐることはなかった。


しばらく経って、こっそりと彼女のFacebookを覗いてみると、幸せそうな結婚式の写真がアップされていた。
彼女の友達が言うには、カッコイイ消防士さんと結婚したようだ。

Facebookに写る彼はめちゃくちゃ強そうだった。

僕はFacebookを閉じ、静かに立ち上がり、ジムに入会することを決意した。