俺の遺言を聴いてほしい

これは俺の遺言だ。

「『韓信の股くぐり』って知ってるか?」




昔々、中国に韓信という武将がいた。
漢の天下統一の際に、大きな功績を残した武将である。

韓信は若い頃、街のゴロツキにケンカを売られた。


「お前の腰にさしている刀は飾りか?

それが飾りじゃないっていうんなら、俺を斬ってみろ。

それができないなら、俺の股の下をくぐれボケ」


ひどい罵倒を受けたが、韓信は迷わず股の下をくぐった。

韓信には大きな志があったからだ。

韓信には、将来成し遂げるべき大きな志があるのに、目の前のゴロツキを斬ってしまったら、それが台無しになってしまう。
韓信は自分の志のため、股の下をくぐるという屈辱を受けることを、躊躇することなく選んだのである。





★ ★ ★


さて、話は現代に。

もう5年以上前の話だけど、俺は横浜の街にいた。

横浜駅西口のドンキホーテ。
ここは横浜のスカウト達がたむろする場所だが、あの時の俺はそんなことは何も知らなかった。
街に危険があるなんて、思ってもいなかったんだ。


彼女と待ち合わせをしていたのは夜だった。
20時にドンキホーテの前で。

それだけ伝えて、俺は家を出た。
彼女は律儀に時間より少し前に待ち合わせ場所にきていた。

彼女の律儀さと誠実さが、後の不幸の原因になったのかもしれない。


少し遅れて待ち合わせ場所に着くと、彼女は怪しげな男に絡まれていた。
俺はすかさず、その男と彼女の間に割り込み、


「連れなんで」


と男を引き離した。俺はなんてカッコイイんだろうと思った。
迷わず割って入れたのが誇らしかった。

そして、彼女を連れてラーメン屋へと向かった。

幸せな将来の話をしていた。
今度はどこどこに行きたいね、と笑い合って話した。

少し暗い横道に入り、手をつないだ。



そのとき。




「おい」


後ろから声が聞こえた。


「ん?」


さっき彼女に絡んでいた男である。


「お前、俺をナメてんのか?」


「え?」


男は怒り狂っている。


「お前、俺を突き飛ばしただろう」



男は言いがかりをつけてきた。



「お前、ぶっ潰してやるから、事務所に来いや」



男はしきりに「事務所」に連れて行こうとしていた。

俺は内心「事務所」にビビっていたが、その男自体は俺よりも20センチほど身長が低く、戦闘力もそれほど高くないように感じた。
でも、もし、こいつが服を脱いだとき、刃牙みたいな身体の持ち主だったらどうしよう。
確実に殺される。


ここはおとなしく謝るしかないと判断した。




「すまない」


「あぁ!?」


「悪かった。俺が悪かったよ」


「誤って済むと思ってんのか?」


「彼女の前でカッコつけたかったんだ。許してくれないか」


「許さねぇよ。お前、ちょっと来いよ」


男の怒りは冷める様子がない。


「わかった、警察を呼ぼう」


「うるせぇよ、事務所来いってんだよ!」


埒があかなかった。


俺は謝罪し、彼は怒り続けた。


そのときである。

彼女が大声で怒鳴った。


「信じらんない!何あんた!

サイテー。ほんとサイテー。

どっか行ってよ、馬鹿じゃないの!?」


俺はiPhoneから警察に電話をしようとしているときだった。

彼女の怒りに男は若干、たじろいでいた。

「あ、あぁ!?」


「信じらんない!ちび!どっか行ってよ」


お、おい・・・・大丈夫か?


あ、警察に電話つながった。

「もしもし」

男がチラリとこっちを向いた。

「ちっ」


「次会ったらぶっ殺すからな」


漫画のようなセリフだった。
俺は彼女に守られた。


次に会ったら殺される予定だったが、幸いにも、5年経った今も彼とは再会できていない。


男は唾を吐き、去っていった。

帰り際に壁を蹴飛ばしていた。
痛いだろうな、と思った。


彼女はずっと黙っていた。
一言も話さずに、吉村家のラーメンを食べていた。

「ら、ラーメン、うまいね・・・」


「・・・・」


「ダシがサイコー!」


「・・・・」


彼女からは返事がない。
まるで屍のようだ。


ラーメンを食べ終わる頃、彼女はおもむろに口を開いた。



「・・・情けない」


「え?」


「情けない!」


彼女は涙を流した。

俺がチンピラに平謝りしていたことを心底情けないと思っていたようだ。
箸を持つ手が震えていた。


俺は、静かに諭した。



「・・・お前、韓信って知ってるか?」



俺は冒頭の韓信のストーリーを説いた。

俺が本気になれば、チンピラを一撃のもとに沈めることができる。

しかし、やらなかった。
なぜか?

大きな志があるからだ。
俺のメガトンパンチでチンピラが死んでしまったら、俺は逮捕されてしまう。

大きな志を成し遂げるためには、こんなところでつまづくわけにはいかぬ。


韓信の話をした後に、孫正義のように志について熱く語った。


「あの謝罪は、俺の志だ。頭を下げながら、心の中で舌を出していればいいんだ」


決まったと思った。
なんていいこと言うんだろう。

天から孫正義が憑依したかと思った。
正義まだ生きてるけど。



しばらく話を聞いた後、彼女は言った。





「いや、めっちゃビビってたじゃん。韓信っていうか、小心者だよ」





その夜、彼女が股を開くことはなく、一週間後に俺は振られた。
俺の韓信が彼女の股をくぐることはなかった。


しばらく経って、こっそりと彼女のFacebookを覗いてみると、幸せそうに結婚している様子がわかった。
彼女の友達曰く、カッコイイ消防士さんと結婚したようだ。

Facebookに写る彼は、めちゃくちゃ強そうだった。


俺は静かに立ち上がり、強くなろうとジムに入門することを決意した。