ネットで叩く人の心理は「嫌われる勇気」で説明されている



3日前に「鈍感力という才能」という記事を書きました。

誰もがインターネットで発信できる時代に必要なのは、いちいちヘコたれない「鈍感力」です。

インターネットで何かを発信していると、色んな所で叩かれたり、晒されたり、悪口を言われることがあるでしょう。

もちろん一部には有益な批判もありますが、少数です。


思わず目を背けたくなるようなひどい言葉を投げかける人もいます。

人間は赤の他人にはこれほど冷酷になれるのかと驚くくらいです。



ユダヤ教の教えに、こんな話があります。

「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。

あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことをすきになれない。

そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。

残りの7人はどちらでもない人々だ」


これをネットに当てはめて拡大解釈すると、


あなたのツイッターを10人が見たとしたら、1人は何を書いてもあなたを批判し続けるでしょう。

7人はあなたが何をしようと無関心で興味もないでしょう。

それでも。

残りの2人はあなたが何を言っても無言で応援してくれるでしょう。


ネットの原則は、賞賛よりも批判の声が目立つ点です。

これはインターネットが登場したときからずっと同じです。

特に、炎上したときは、周りの声が批判ばかりに見えてしまうこともあります。


サイレントマジョリティーといって、声を出さずにあなたを応援してくれている人もいるのです。


批判の声ばかりではないことを忘れずにいましょう。


インターネットでは全ての人から賞賛される人はいません。

同じように、全ての人から批判される人もほとんどいません。


誰からも叩かれない発信はむしろ、誰にも届かない発言であるとも言えます。


叩かれることを恐れすぎると、

「赤信号で道路を渡ってはいけません」

「カレーライスはおいしいです」

みたいな、無難でつまらない発信しかできなくなってしまいます。


歯に衣着せぬ物言いで、自分の言いたいこと好き放題言うと、批判されます。

中には度重なる批判に心が折れて、発信をやめてしまう人もたくさんいます。


このインターネットで自由に発信していくには、どうしたらいいでしょうか。


「嫌われる勇気」で紹介されるアドラー心理学にヒントがあるかもしれません。



「権力争い」をしない

アドラー心理学では、原因論ではなく、目的論にそって物事を解釈します。

たとえば、「大声を出して人を罵倒している人」がいたとすると、

「怒りに駆られて大声を出した」

のではなく、


「大声を出すため怒った」


と説明します。


つまり、「大声を出す」という目的が先にあって、その手段として怒りという感情を捏造した、というのがアドラー心理学の考え方です。

「嫌われる勇気」から引用します。

青年:いくら先生だって、さしたる理由もなく罵倒されたら腹が立つでしょう?

哲人:立ちません。

青年:嘘をついちゃいけません!

哲人:もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。

直接的な面罵に限らず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が「権力争い」を挑んできているのだと考えてください。


ネットではさしたる理由もなく罵倒し続ける人がいます。
もちろんネットに限らず、悪質な職場では上司が部下を晒しあげて、大声で叱責する場面もあるのではないでしょうか。

そういうときは、相手の「目的」を考えるのだと言います。

そう、このときの相手の目的は「勝つことによって、自らの力を証明したい」ということになります。

たとえば、ネットでよく見られる中傷の場合、「嫌われる勇気」の言葉がそのまま当てはまります。


「相手は批判したいのではなく、ただあなたを非難し、挑発し、権力争いを通じて、気に食わないあなたを屈服させたいのです」


思い当たる事例があるのではないでしょうか。


大声で部下を叱咤する上司も同じですよね。

ミスを注意するなら間違っている部分を論理的に、筋道立てて注意すればいい。


わざわざ大声で晒し者にするのは、「自らの力を誇示したい」という目的があるからです。



ではここで、相手に権力争いを仕掛けられたあなたが、逃げずに売られた喧嘩を買ったとします。


そして仮に争いを制したとします。


すると、争いに敗れた相手は次の段階に突入します。


次の段階とは「復讐」の段階です。


『嫌われる勇気』にはこのように書いてあります。


「いったん引き下がったとしても、相手は別の場所、別のかたちでなにかしらの復讐を画策し、報復行為に出ます」


対人関係が復讐の段階まで及んでしまうと、当事者同士による解決はほとんど不可能になります。

そうならないために、権力争いを挑まれたときは、絶対に乗ってはならない、というのが『嫌われる勇気』の主張です。



さて、ここまで読むと、ただやられっぱなしで我慢するだけに見えてしまうかもしれません。

いちいち言われて、「倍返し」もせずに黙っているのは屈辱のように感じます。


僕自身もネットで散々叩かれてきたので、やられた分はいつか倍返しでやり返してやろうと復讐の念に囚われていたこともありました。


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しかし、「嫌われる勇気」の中で、このような感情は「対人関係の罠」として、明確に否定されます。


自分が正しいからといって、相手を非難してはいけない。

争わないことが大事であると。


対人関係の中で「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れています。


なぜでしょうか?


主張の正しさは、勝ち負けとは関係ないからです。


「わたしは正しく、相手は間違っている」という風に思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまう。


自分が正しいと思っているなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結する話です。

結果的に誤っていたときに、誤りを認めること、謝罪の言葉を認めること、権力争いから降りることは、負けではありません。


競争や勝ち負けを重視するのではなく、自分を正し、自分が正しいと思う行いを貫くことで、自分を変えていくことができるとアドラーは言います。


インターネットでは

「お前は間違っている」

「お前はおかしい」

「いやいや、おかしいのはお前だろ!」


というような権力争いがたびたび発生します。


ここで争ってしまってはいけないということです。


自分が正しいと思っているなら、そこで完結させる。

他人が何かを言ってくるのは、「他者の課題」であって、「自分の課題」ではない。

アドラーは

「他者の課題と自分の課題は明確に分離せよ」

と言います。


そして、自由であるためには、他者に認められようとしてはならない。

アドラーは「本当の自由とは他者から嫌われることである」と言いました。



「他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない」


ということです。

なんとなく大学に行って、なんとなく入社して、なんとなく仕事をして、それが他人に評価されるためであるとしたら、自分の気持ちに自由であるとは言えません。

「いいマンションに住んで褒められたい」というのは、他者の承認を得るための生き方です。

「いい会社にいきたい」というのも同じかもしれない。

ネットでも同じように、他人にどう評価されるかを気にしていては、好きなことを発信できません。

それは自由であるとは言えません。


「嫌われる勇気」はインターネットを意識して書かれた本ではありませんが、ネットで情報発信する上で心に留めておきたい記述がたくさんありました。

  • 相手の目的を考えて、権力争いをしない
  • 自分が正しいと思うことを貫き、そこに他者を介入させない
  • 他者の承認を求めない


人の目を気にしない「主体的な強さ」を持ち、心に「嫌われる勇気」を。


ネット時代に必要とされるのは「鈍感力」ではなく、「勇気」だと感じました。


「嫌われる勇気」にはまだまだ興味深い内容がたくさんあるので、次回以降、折にふれて紹介していきます。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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