「出過ぎた杭は誰にも打てない」39歳で人生を再起動したMIT石井裕先生が語る「3つの山」



2008年に放送された「プロフェッショナル仕事の流儀」が書籍化されていた。


アメリカ、ボスコン郊外にあるマサチューセッツ工科大学(MIT)は、ノーベル賞学者63人を輩出した理工系最高峰の大学である。
コンピュータの世界で知らぬ者はいない。

MITには世界中から選りすぐりの研究者達が集まるが、その中で名を轟かせる日本人がいる。


MITメディアラボ教授、石井裕。


メディアラボは世界のコンピュータ研究の最先端をゆく研究機関の一つ。

これまでに、ホログラフィックビデオなどのコンピュータ社会を支える数々の技術を生み出してきた。


その最先端の研究所の中で、石井の研究が世界中から注目されているのは、彼がコンピューターの概念を再発明しようとしているからである。


アラン・ケイがコンピュータを発明してから現在にいたるまで、人間とコンピュータのインターフェースはほとんど変わっていない。

マウスを操作し、キーボードで打ち込む。

スマートフォンになっても本質は変わらない。

指がマウスの代わりになり、キーボードを画面に表示させているだけだ。



石井は全く別の発想で研究を進めた。


「子供が砂で遊ぶように、コンピュータを操作することができないか?」

と考えたのである。


「触って、動かす」という概念を「タンジブル」と呼ぶ。

石井の研究の中心となる概念だ。


石井の人生は、決して平坦な道のりではなかった。


1980年、北海道大学大学院を修了。

最先端の研究をしたいと、当時珍しかったスーパーコンピュータを持つ「電電公社」に入社した。


しかし、来る日も来る日もコンピュータの保守と、マニュアルづくり。

求めていた研究とはほど遠い仕事だった。


1981年、アメリカで新しいコンピュータが発表された。

ゼロックス・スターワークステーション.


このシステムの斬新さに衝撃を受けた石井は、「自分も世界にインパクトを与える開発をしたい」と誓い、普段の仕事をこなしながら夜中に同僚と研究を始めた。


社内ではなかなか評価されなかったが、夜中までひたすら研究を続けた。

入社して15年が経った時。

完成させたのは画面に文字や絵を書きながら通信する共同作業メディア「クリアボード」。


海外の学会で発表すると、発想の斬新さが話題となり、名門マサチューセッツ工科大学から声がかかった。


誘われて10分後、石井が出した答えは、

「Yes」

であった。


当時、石井は38歳。

1年後の39歳でアメリカに渡る。


そのときのことを振り返り彼は


「39歳にして人生を『再起動=リブート』した」


と語る。


日本で積み重ねてきた研究をアメリカでさらに発展させようという大志を抱いてMITに乗り込んだ石井だったが、最初の歓迎ランチの席でメディアラボ所長のニコラス・ネグロポンテ教授から与えられたアドバイスはこんな言葉だった。


「今までの実績を捨てて、新しい研究で勝負しろ」


15年もの研究成果を捨てての、ゼロからの再出発。

結果を出せなければ即、解雇。同僚たちは世界最高の頭脳で、次々と斬新な研究を世に出していく。

自分の凡庸さを思い知らされた石井だったが、こんなことでようやくつかんだMITの研究職を諦めるわけにはいかなかった。


「能力の限界まで試さないで、終わってしまうのは情けない。

全然通用しないかもしれない。でも、通用しなければしないということがわかっただけで、それで十分。

チャレンジせずに人生が終わってしまうのは、情けない」


自分をとことん追い詰め、がむしゃらに努力した。


やがて石井は「研究所で最も遅くまで働く男」と呼ばれるようになった。


そして着任5年目、終身在職権である「テニュア」を取得することとなる。

その後も石井は研究の手を休めることなく走り続ける。


「僕は天才でもないし、特別な人間じゃない。普通の人間で、人の何倍も努力する。

何倍も努力してどうにかやっていけるレベルの人間ですから。

本当に天才的な連中がいっぱいいますけど、羨ましいですね。

少しでも近づきたいと思う」


生き残っていくには、二倍働き、三倍の成果を上げなければならない。

熾烈な競争の現場で、石井は決して働くスピードを緩めない。

出過ぎた杭は誰にも打てない

移動の時もいつも急いでいる石井教授。

NHKスタッフが「なぜいつも急いでいるんですか?」と尋ねた。


石井は答える。


人生は短い。

そのうえ、僕に残された時間は君よりも少ないから走るんだ。

実現させたい夢はいっぱいあるんですよ。

でも、自分の力が及ばないんです。

それに、眠らなければいけないし、食事もしなければいけない。

その時間を差し引くと、本当に仕事ができる時間はあまり残されていないです」


仕事には哲学がないといけないと石井は言う。

「なぜ」を問い詰めていくと、哲学につながる。


「なぜか、に答えられなかったら、浅いやっつけ仕事になってしまう危険がある。なぜかという理由は哲学につながる。

最終的に哲学を語る答えが出てこないとダメですね」


人生は短い。

2200年の世界に自分が生きた証を残したい。

そんな夢を持ち、石井は今も走り続ける。


「2200年の世界に何を残せるか。それを考えて僕は毎日を生きている」
http://courrier.jp/blog/archives/9690


そんな石井教授が日本で講演を行うとき、若者に対して毎回必ず送るメッセージがある。

「石井三力」だ。



「道程力」=原野を切り開き、まだ生まれていない道を独り全力疾走する力。



「出杭力」=打たれても打たれても、突出し続ける力。



「造山力」=誰もまだ見たことのない山を、海抜ゼロメートルから自らの手で造り上げ、そして初登頂する力。




「出る杭は打たれるんです。

でも出過ぎた杭は誰にも打てない。

皆さんは、出過ぎた杭になってください」


石井はいつも通り、英語交じりの早口で講演を終える。

参考サイト・書籍

「出る杭は打たれる」というが、それは中途半端に出るから打たれるわけで、徹底的に出すぎれば打たれない。

そうすることでしか生き残る術はないのではないか。

そのためには燃料が必要で、そのために最も強力なものは「飢餓感」であるともという。


知的産業に生きる者が、そのような飢餓感を持てるかどうか。

石井氏が勧める処方は、「屈辱」を大事に貯金すること。

自分の作品を誰も見てくれない、名前もしらない、評価してくれないという悔しさを、発散せずに貯めこんでいく。

その途中で腐らないためのプライドと、萎えてしまわないための情念も大事。

やがてそれをポジティブなエネルギーに変換していくことで、本質をいちはやく見出し、知的収穫を貪欲に平らげる強靭さが生まれる。


MIT教授 石井裕氏による基調講演「重力に抗して:タンジブルビット」2200年の未来に何を遺すか? 


◆ほぼ日刊イトイ新聞「石井裕先生の研究室」
https://www.1101.com/mit_ishii/2011-05-11.html

石井教授は研究だけではなく、営業も行う。

曰く、
「スポンサー企業を巻き込んで、プロジェクトを具体的なかたちにして発表し、学校から飛び出て社会から評価されなければ、業績として認められないのです」

◆Hiroshi Ishii's Home Page
http://tangible.media.mit.edu/person/hiroshi-ishii/
f:id:hideyoshi1537:20160111103100j:plain


◆世界大学ランキングでMITはトップである。
QS社が発表したランキング


◆「39歳でMIT教授に転身。まったくゼロから「タンジブル・ビッチを生んだ石井裕」」
http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000789