「いらっしゃいませ、こんばんは」
スタッフに丁寧に迎えられて、コートを脱いだ。
案内された席は横並びで、目の前の大きな窓から東京タワーが橙色に輝いて見えた。
汐留シティセンターは新橋駅から歩いて5分の場所にある高層ビルだ。
エレベータに乗り込み41階のボタンを押すと、凄まじい勢いで天空に向かって動き出す。
41階は東京を見下ろすことができる高さだ。
田舎者の心が踊る。
今夜は行ける気がする。
心なしか、股間に力が漲ってきた。
気圧の変化で耳がツンとなるのを感じながら、廊下を歩いた。
ホールの真ん中に大きなピアノがあった。
そのピアノを右手にして東京タワー側に曲がった場所にあるバーが、「Bar&Lounge MAJESTIC」である。
大勢のスタッフに出迎えられた。
案内された席は暗く、東京の美しい夜景が見えた。
ふと横を見ると、脂の乗ったオジサンとオバサンが幸せそうに肩を組んでいた。
そうか...。
ここはオッサンがオバサンを口説く店なんだなと少し納得しながら、ふと窓を見た。
その窓に映る男の姿を見て驚いた。
オッサンが映っていたのである。
このオッサンは誰だ...?
......私だ!!
なんということだろう。
私はいつの間にか、オッサンになっていたのだ。
美しい夜景が見えるバーが、「背伸びした大人の場所」でなくなるくらい、自分は老いていた。
年収は全く上がらないが、年齢はいつの間にか上がっていたのだ。
大学生の時、サークルの女友達が
「バーでサラリーマンに口説かれた」
と話していた。
口説くと言えば居酒屋か家かカラオケしかなかった大学生の自分にとって、バーでカランと氷を鳴らし、オシャレなカクテルを飲みながら女を口説く人々の話はまるで別の世界のように聞こえた。
そんな別世界のバーに今、オッサンとなった自分がいて、ビールを頼んでいる。
オッサンとなった自分が飲むビールの味は、皮肉なことに大学の時に一気飲みしたビールと同じ味がした。
変わったのは見える景色と、自分の年齢だけだった。
感傷に浸っている暇はない。
私は女とバーに来たのだ。
バーで女を口説くのは、オッサンの義務である。
憚ることなく口説かなければならない。
窓に映る東京タワーの方に目を向けながら、横にいる女にウンチクを語った。
「この東京の美しい夜景は、日々残業するサラリーマンの汗によって彩られているんだ」
「あそこに六本木ヒルズが見えるだろう?」
「あの六本木ヒルズの42階から48階にはゴールドマン・サックスが入居している」
「六本木ヒルズの頂上で輝くゴールドマン・サックスだが、水曜日の夜だけはどこか哀しい色になるんだ。
なぜだかわかるかい?」
「水曜日は、ゴールドマン・サックスの解雇通告の日だからだよ」
まるで自分がゴールドマン・サックスの社員であったかのように語った。
全て聞きかじった話なのに、微塵もそんな様子は見せない。
女は私の話に聞き入っていたのか、終始無言で頷いた。
私のゴールドマン・ボールを露わにする瞬間(とき)が近づいているのかもしれない。
ゴールドマン・サックスの話をしながら、私は女を口説き続けた。
東京タワーが妖しげに輝いている。
だがこの瞬間だけは、私は東京タワーに勝利した。
女の瞳に映っていたのは東京タワーではなく、私だったはずだ。
そして最後に、これは決してフィクションではなく実話なのだが、人生で一度言ってみたかった伝説のセリフを吐いた。
「君の瞳に」
「乾杯」
* * *
女から解雇通告を食らった私は、行くあてもなく汐留から新橋駅までさまよい歩いた。
楽しそうなサラリーマンと、足取りが覚束ないOLが笑いながら話していた。
街が美しく輝いて見えたのは、私の視界が涙で滲んでいたからなのかもしれない。
サラリーマンを横目で見て、スーツを着ている自分に気付く。
私もサラリーマンなのだ。
高層ビルのバーから見た東京の夜景は美しかった。
もっとこの街を楽しみたいと思った。
しかし東京を楽しむには金が必要だ、という当たり前の現実に直面してしまった。
マジェスティックの会計は、ビール2杯とカクテル2杯で10,000円だった。
これが大人の飲みというものなのか、と宅飲み一杯300円でビールを一気飲みした大学時代を思い出す。
ビールの味は同じでも、大人は雰囲気に金を払うんだな。
アラサーたるもの、バーが似合う男にならなければ。
翌週の仕事に向けて気合いが入った。
女からのLINEは今も来ない。