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俺の遺言を聴いてほしい

これは俺の遺言だ。

社会に出て一番役に立った受験科目は「現代文」だと思う。

「大学受験の勉強は社会に出てから役に立たない」という話をよく聞きます。
詰め込み型の教育はテストの点取り競争になり、その知識は忘れ去られ、社会に出てからは何も使わないと。

実際、ほとんどの人はいちいち生物のミトコンドリアの話なんて覚えてないだろうし、三角関数の公式を使いもしません。
あの時学んだ知識のほとんどはたしかに使われずに記憶の網から抜け落ちていっているのかもしれません。

けれど、人間の記憶というものは不思議なもので、

一度理解して覚えたものは、たとえ忘れてしまったものでも、もう一度勉強した時に前よりも早く理解できる

という性質があります。

そのため、たしかにテストの問題に即答することはできないかもしれないが、あの時学んだような内容を復習すれば、その多くの記憶は短時間で蘇らせることができるのです。

たとえば。

2016年7月10日に参議院選挙が行われることが決まった。
参議院選挙は3年に一度行われ、議員の半分が改選対象となる。

僕達は投票所で2票投票することになり、1票は個人に投票する「選挙区選挙」
もう1票は政党か人かで投票できる「比例代表選挙」である。

なんてにわか知識をパッと調べて理解できるのは、高校の時に一度「政治経済」の教科書を読んでいたことが大きい。
一度概念を理解しておけば、記憶力はGoogleが勝手に補完してくれます。

たしかに政治経済の知識を覚えていても1円のプラスにもなりませんが、あの時学んだ知識は、僕の生活にたしかに関係があることなのです。

前置きが長くなりましたが、受験科目を「社会に出て役に立った順番」に並べ替えると、以下のようになると思います。


現代文 > 数学(的な考え方) > 英語 > 社会 > 家庭科 > 保健体育 > 理科


まず、現代文について。
仕事をする上で、「適切な言葉で適切に意図を伝える」というのはとても大切なことです。

どんな作業をしたのか、いまの状況はどうなっているのか、何か問題があるのか。
適切なタイミングで、意思疎通を図るためには日本語能力は必要不可欠で、意図をちゃんと共有していかないと複数人で協業して仕事を進めるのは難しいでしょう。

社会人はコミュニケーション能力が大事とはよく言いますが、コミュニケーション能力というのはノリの良さみたいな社交性だけではありません。

「物事を正確に伝えること」こそが、コミュニケーションの本質です。

その「コミュニケーション能力」の土台にあるのが日本語能力だと思います。

仕事では「伝える」だけではなく、「読み取る」能力も必要です。

上司の指示を正確に理解して、自分のタスクに落としこむためには、相手の意図を正確に読み取らなければいけません。

入試の現代文で培う能力は、このような「伝える力」「読み取る力」の基礎を形成する上で非常に大きな役割を果たしています。

大学受験では一番侮りがちな現代文ですが、実際には侮れない大切な科目だったのです。

ただ、受験の現代文にはずっと文句を言いたかったことがあって。

センター試験の大問1に出てくる「評論文」、あれつまらなすぎでしょ。
頭の良い人は難しいことを簡単に話すと言われますが、評論文はその真逆をいってる。

簡単なことを小難しく書き散らし、理解してもらおうという意志が全く感じられない。
受験じゃないと絶対に誰も読みたがらないような評論文。

マーケットセンスが感じられない!
読ませる気あんのかよ!とずっと思ってました。18歳のときに。

今思い返して、抑えきれない怒りが沸いてきたのですが、大学教授はもうちょっとわかりやすい日本語を使ってほしい。
いや、それこそが僕に日本語能力が足りてないということなのかもしれませんが。


次に役に立ったのが数学です。
三角関数の公式を使うことはありませんでしたが、「なぜそうなるのか」と理由を考える姿勢は、仕事をする上で大切なことでした。

社会では「俺がこう思ったからいいんじゃい」というのは基本的に通用しません。
「なぜそういう結論に至ったのか」という理由を理詰めで考えて、第三者に納得してもらう必要があります。

だから、基本的に常に「なぜそうなのか」を説明し続けていて、その基礎となるのが「数学っぽい考え方」だと思います。
そういう意味で、成績悪いなりに数学やっててよかったなぁとは思います。細かい公式はなんの役にも立ちませんが。


あとは、家庭科ちゃんとやっておけば、ちゃんと自炊できたかな(笑)
なんて考えながら、今日の夕食をどうしようか考えています(たぶん外食)