高校の授業の効率を高めるにはどうしたらよかったのか?



「鉄緑会 東大英単語熟語」という本で今更ながら英語の勉強をしていて、ふと高校の授業を思い出した。

僕は田舎の公立進学校で青春を過ごしてきたわけだけど、いま振り返るとずいぶんと効率の悪いことをやっていたな、とも思う。

もちろん効率の悪い(と僕が思う)授業を受けながらも東大に合格した優秀な友達もいるし、僕は教育のプロではないので自分の考察が正しいとは限らない。

この記事は負け犬の遠吠え的な部分も多分に含んでいる。

とはいえ、やっぱりどう考えても、高校の授業には改善の余地があったように思えてならないのだ。


たとえば日本史。

僕の高校の日本史の授業は、授業の最初にプリントが配られた。
Wordで作ったもので、重要な単語を( )で穴埋めしていくタイプのプリントだ。

プリントにはその日取り扱う教科書の内容が書いてあって、練習問題はない。
授業では教科書の内容を先生が喋りながら、黒板に書いていく。

そして、黒板に書かれたことを赤字でプリントに埋めていく、というのが授業の基本スタイルだった。


あの頃から薄々感じてはいたけど、教科書の劣化版みたいなプリントに、教科書の内容を書き込んでいく授業は全くもって頭に残りにくい。

いや、わざわざプリントに書かなくてもそれ教科書にあるやつやん、と言いたかった。

もし授業の目的な「試験の成績の向上」であれば、授業は問題中心で進めるべきだと僕は思う。

試験で出題される問題を意識しながら教科書を読んだほうが、

「この知識がどう問われるのか」

を意識することができて、頭に残りやすい。

授業の目的が、文部科学省の「高等学校学習指導要領解説」にあるように、「歴史を考察し表現する力」を身に付けさせたいのであれば、教師は「なぜそのような事件が起こったか」をもっと深掘りするべきである。


高校の歴史の授業は本当につまらなかった。

成績は悪くなかった。センター試験も9割は取れたと記憶している。でも授業はつまらなかった。

無味乾燥な教科書の音読を延々と聴くだけの授業は、まるでお経を聴いているようだった。

他人のお経を聴くくらいなら、自分で読んだほうが早いし記憶に残る。

しかし、教師は絶対に内職を許さなかった。

「俺を見ろ」

「俺の授業が全てだ」

と言わんばかりであった。裸の王様だ。

都内の超進学校だと全く性質が異なるのかもしれないが、僕の経験を振り返る限りだと、田舎の公立高校の授業はもっと改善できる余地があったように思う。

たとえば、歴史の授業はつまらなかったけど、司馬遼太郎の小説を通じて歴史に触れるのはめちゃくちゃ面白い。
孫正義は「竜馬がゆく」を読んで、その後の大きく人生を飛躍させたし、本来歴史というものは、過去に触れ、過去を学び、現代に生きる我々の糧になる類のものだと思う。

oreno-yuigon.hatenablog.com

その人物は何を思ってそのような行動をしたのか。
なぜその事件は起こり、その結果、世界にどのような影響を及ぼしたのか。

教科書は「事実を書かなければならない」ので、人物の心情などが書かれることはない。

しかし、歴史は人が作るものだし、人には必ず感情がある。
歴史に残るような大事を成し遂げる人間には必ず、何か大きな感情の動きがあったはずで、そこに触れ、考えることは僕たちの心の糧となるのである。

なので、歴史の授業では、できれば先生の口からそのようなエピソードを聞きたかった。
偉人のエピソードを糧にしたかった。

そうすれば、歴史の授業は他にないオリジナリティの高いものになり、その後の人生を歩む上での勇気となったと思う。


次に英語。

英語で今でも覚えているのは夏休みの宿題だ。

英語の薄い小説を渡されて、手書きで日本語訳を全部書く、というようなことをやらされた気がする。
提出しても絶対全員分なんて読んでねぇだろ...。

たしかに英語の多読は有効な勉強法なんだけど、それをわざわざ日本語にして手書きで書くのは明治時代のやり方だと思う。
ひどいときは左に英文、右に日本語を書き写すような軍隊的なやり方を強要されたこともある。

そんな時間があれば、同じ英文を何度も何度も音読したほうが絶対にいい。
そもそも音声CDを渡してしかるべきなのに、なぜそれがなかったのか。

授業中に教師のあやふやな発音で英文を音読されて、家では正しい発音を学べない。
それではリスニングの攻略も難しいだろう。

教科書自体に不満はないし、教科書の英文を全部極めれば英語をスムーズに話せるのは、瞬間英作文が証明している。
しかし、高校での教科書の使い方はイマイチだ。

英文や日本語訳を手書きさせるのはやめて、CD(今だとダウンロードかな)を渡して、ひたすら音読させるのがいいと思う。
英語の授業は毎日あったから、2日に一度は発信型の英語の学習を取り入れるとなお良いのではないだろうか。

教室にwi-fi飛ばして、保護者から月に5,000円集めて、全員でオンライン英会話やるのがいいよ。
マジでそっちの方が英語やる気になるよ。そうしてほしかった。


そして数学。

数学も理科もそうだけど、理科系の科目はもっと

「なぜそうなるのか」

を深掘りしていってほしい。
というか、「なぜ」が全てだと思う。

高校数学がわからなくなるきっかけは、「なぜそうなるのか」を理解できなくなる部分にあると思っている。

中学の数学に比べて抽象度が上がって、理由を考えるためにはある程度理屈をこねくり回さなければならない。

僕の高校の数学の授業では、はじめに黒板に公式をでかでかと書かれて、僕たちがそれを書き写し、その後で「問題を解いてみましょう」と言われ、しばらくしたら先生が黒板に解答を書き始める。

「この公式を当てはめるとこうなるので、この問題の答えはこうです」

という説明をされてたんだけど、ちーがーうーだーろーこのハゲー、と。

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理科系の科目ではまず、「その公式はなぜ成り立っているのか?」「その公式はどのように導くことができるのか」をよく理解させることが最も重要だと僕は思う。

「こんな公式を当てはめたら問題解けちゃいました」

だと応用が利かない。


なぜその公式を使うのか?
なぜその公式によって、問題を解くことができたのか?
その公式を使わなくても解く方法はあるのか?

を深く理解しておくことで、その他の問題にも応用することができる。

そもそも

「なぜその問題が解けたのか」

と聞かれたときに、

「公式に書いてあったからです!」

なんて説明は、将来のビジネスシーンでも許されないだろう。

「なぜ」を突き詰める癖をつけることは、若者の未来のためにもなると思っている。

原理原則を突き詰めていくことは、将来大学に進学した後の研究にも通じるはずだ。


最後に、高校生の僕が全く重要性を理解できなかった科目。
すなわち、家庭科、音楽を侮るべきではなかったと後悔している点について述べたい。

家庭科は全く意味が無いと思っていたが、あのときちゃんと家庭科を極めていれば、いま料理アカウントとして窮地に立たされることはなかった。

音楽をちゃんと知っておけば、クラシックを聴く時の教養になっていたかもしれない。
腹式呼吸をマスターしておけば、カラオケが苦手じゃなかったかもしれない!

ちなみにクラシックではないけど、ドラクエのコンサートはよかったよ。
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振り返ると、高校で学んだ科目は大学以降の勉強の基礎になるし、学ぶこと自体に無駄なものはほとんどないように思う。
僕なんて30歳を過ぎて高校数学を勉強をやり直しているくらいだ。

古文漢文は無駄かどうか議論になってたけど、キングダムや蒼天航路は最高だ。

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学ぶ内容に無駄はないけど、学び方には無駄な部分もたくさんあった。
無駄があるということは、改善できるということだ。

でも問題なのは、時間が経ってからでないと、

「何が無駄で何が無駄じゃないのか、どうすればよかったのか」

ということについて、自分なりに考えることができないということだ。

あの頃は「いまを生きること」に精一杯だったし、勉強の効率なんかよりも好きな子にメールを送ることしか考えなかったからね。
もし高校の授業科目に「恋愛」があれば、あんなにボロボロに振られることはなかったのかもしれない。

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