1957年8月11日、佐賀県鳥栖市五間道路無番地。
孫三憲、季玉子夫婦の次男として、孫正義は生まれた。
佐賀県鳥栖市は戦前から韓国・朝鮮の人達がバラックを建てて住みついた区画である。
祖父母や父母が一所懸命に働いている姿を見て、正義少年は思った。
「いつかみんなを楽にさせてやりたい。この泥沼から頑張って、少しでも陽の目が見られるようになってやる」
父・三憲は正義の一挙手一投足を褒めちぎった。
「ひょうっとすると、おまえは天才なんじゃないか?」
「日本で一番だ」
「おまえは大物になる」
親バカの極地と言ってもいい。
そんな褒められ方をずっとされてきたおかげか、正義は「やればなんでもできるんだ」と思うようになった。
いったん信じ込めばどこまでも突き進んでいく正義の性格は少年時代に形成されたといっていい。
小学校の成績はずっと一番だった。
とはいえ、教科書はずっと学校に置きっぱなしで、近所の子供を率いて遊び回っていた。
天才気質だったのかもしれない。
トップの成績で小学、中学時代を送る。
* * *
1973年。孫正義は九州でラ・サール高校に次ぐ進学校として知られる久留米大附設高校に入学した。
ラ・サール高校の偏差値は76で、久留米大附設高校の偏差値は75である。
孫正義の高校時代。
人生を大きく変えることになった出来事が2つある。
ひとつめは、日本マクドナルド社長、藤田田に面会に行ったこと。
藤田田の著書、『ユダヤの商法』を読んで感銘を受けた孫正義は、単身九州から上京して藤田に直接面会を申し込んだ。
藤田はこの無謀な少年を社長室に招き入れ、
「私が若ければ、食べ物の商売をしないで、コンピュータに関連したビジネスをやると思う」
と言った。
この言葉が後に、孫正義とマイクロコンピュータを引き合わせたと言ってもいい。
ふたつめの出来事は、高校1年の夏休みが終わりに、カリフォルニア大学バークレー校に短期で語学留学したことだ。
キャンパス内で正義は感動していた。
アメリカの大学ではさまざまな格好をした人がいる。
肌の色も年齢も、みんな異なっている。
アメリカは人種のるつぼだ。教科書では読んだことがあるけれど、目の当たりにすると圧倒されてしまった。
正義がキャンパスを歩いていると、突然声をかけられた。
何やら必死で話していたが、何を言っているのかはわからなかった。
キャンパスにいればみんな仲間であり、自由に声をかけ合う。
それがアメリカのやり方だった。
国籍など誰も気にしていない。
人と人とのぶつかり合いだ。
当時、在日韓国人3世として差別を受けたこともあった正義は衝撃を受けた。
帰国するなり、正義は両親にこう言った。
「高校を辞めようと思う」
当然、家族は猛反対。
親戚中が「早すぎる」と忠告した。
しかし、正義は聞かなかった。
「自分は韓国籍だから、大学を出ても日本では認めてもらえない。
でも、アメリカで結果を出せば、日本で評価される」
正義の頭のなかには、きちんとした目標が用意されていた。
「人生は短い。若いうちに行動しなければ、後悔する」
バークレーで見たアメリカの青い空は、どこまでも広がっている。
「人生は限られている。だからこそ、思いきり生きなくては」
母は泣き、正義がアメリカに行く直前、父が病気で倒れた。
アメリカに行くと決めていたものの、心の中では迷いに迷っていた。
「家族が苦労しているときに、おれはひとりでアメリカに行くつもりか」
正義は坂本龍馬のような心境だった。
土佐藩を見限り脱藩した龍馬に思いを馳せた。
脱藩は大罪で、類は親類縁者にもおよぶ。
しかし、自分にはやらなければならないことがある。
いまアメリカ行きを躊躇したら、道は拓けない。
大きな義を取るためには、ときとして人を泣かすこともある。
「志高く、生きたいんだ」
正義はいつか家族に恩返しする日を夢見て、アメリカに飛び立った。
* * *
1974年2月。正義はカリフォルニアに旅立った。
サンフランシスコ郊外、ホーリー・ネームズ・カレッジ構内にある英語学校に入学。
正義は必死に英語の勉強を始めた。
正義はいっさいの日本語を禁じ、どんな問いかけにも英語で答えていたため、英語力はみるみるうちに向上した。
英語学校に入学してから7ヶ月後、正義はサンフランシスコの南に隣接するデイリー・シティにある四年制高校、セラモンテ・ハイスクールの2年生に編入した。
四年制のセラモンテ高校の高校2年生は、日本の高校1年生にあたる。
編入して1週間後、正義は校長に直談判した。
「いますぐ3年生にしていただけませんか?」
「君はまだ高校1年生の課程も終えていないではないか」
「でも、一刻も早く大学に進みたいんです」
校長は正義の熱意に打たれ、翌日、正義は高校3年生に進級した。
3年生に進級してから5日間、彼は食事中も、トイレでも、かたときも教科書を離さず猛勉強した。
その様子を見たトルヒーロ校長の英断で、3年生からさらに4年生になる特例を認められた。
日本でいう「高校3年生」になるまで、1週間と5日。
それだけでは満足せず、正義は間髪容れず暴挙とも思えることに挑んだ。
いきなり大学入学のための検定試験を受験したのである。
アメリカでは高校を卒業せずに大学に行くケースは珍しくないが、わずか3週間で高校を終えて難関の試験に合格した例はほとんどない。
検定試験は数学、物理、化学、歴史、地理、英語の6科目全てに合格しなければならず、1科目でも落とせば再度やり直しをしなければならない。
校長は正義の可能性を最初から否定することはせず、無理とは思いながらも推薦状を書いた。
誰もが無理だと思っていた中、たったひとり合格を信じていた男がいた。
孫正義自身である。
検定試験は1日2科目、3日間にわたって行われる。
初日は朝9時に始まった。
孫は配られた問題を見て愕然となった。
日本とはまるっきり違う。ドサッと置かれた分厚い量の問題。
普通の学生だったら、自分の無謀さを後悔したに違いない。
しかし、今年このテストに落ちたら、来年まで待たなければならない。
「そんな余裕はない」
孫正義は考えた。
決意はあくまで貫き通すのだ。考えるだけなら誰でもできる。
一度決意したなら、それをいっきに実行していく。
一回限りの人生だから、人類の歴史に残るようなことをしたい。
みんなと同じことをしていてはとても歴史に名を残すことはできない。
意を決した正義は、試験官に辞書の使用と時間の延長を申し出た。
当然、試験官は
「残念だが、きみに対して例外的な措置は取れない」
と断った。
が、孫は諦めなかった。
なんと、職員室に行って、周りの教師たちを説得したのである。
熱意を持って説得した結果、周りの空気が変わり始めた。
教師のひとりが、教育委員会に電話してくれたのだ。
電話を受けた教育委員長は、少年の主張の正否よりもその熱意に負けた。
辞書の使用と時間の延長の許可が出たのである。
しかも、時間の延長について「何時まで」と決められたわけではなかったことを、正義は都合のいいように解釈した。
問題が解けるまでひたすら机に向かったのだ。
午後3時。
他の受験生たちが教室から立ち去った後も、正義はひたすら問題と格闘し続けた。
初日の試験を終えたとき、時計の針はなんと午後11時をさしていた。
試験官も明らかに疲れた顔で、絞り出すように言った。
"Well done." (よくやった)
正義は微笑みを浮かべて静かに言った。
「ありがとう」
2日目も午後11時まで。
3日目は午前零時、日付が変わった頃に試験を終えた。
2週間後、ホームステイ先の正義の部屋に、カリフォルニア州教育委員会から郵便物が届いた。
結果が届いたのだ。
正義はドキドキしながら開封した。
数学は満点に近い。物理は比較的いいできだ。
英語、化学、歴史、地理などの科目は芳しくない。
だが、眼に飛び込んできたのは
「ACCEPT」 (合格)
の文字だった。
孫正義はアメリカの高校生活をわずか3週間で終え、大学生になることができたのである。
セラモンテ高校事務局の記録には、
「1974年10月23日、Jung-Eui Son(チョン=イーウィ・ソン」 Withdraw(退学)」
と記されている。
事務局スタッフのひとりが言った。
「たとえ卒業生ではなくても、私たちはミスター・ソンのような人物が在籍していたことを誇りに思っています」
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