1975年9月。
孫正義はアメリカの高校生活を3週間で終えて、ホーリー・ネームズ・カレッジに入学した。
「ほんとうに勉強をせんといかん」
そう決意した直後、孫はドアを買いにいった。
取っ手のついていない大きなドアを特大の机にした。
その上に教科書、辞書、参考書など何から何まで置いた。
ライトは3ヶ所から照らした。
「グワーッ」という唸り声と共に勉強を始めた。
食事をするときも風呂に入るときも勉強した。
湯船につかっていても教科書からは目を離さない。
車を運転するときは講義を録音したテープをヘッドホンで聞いた。
信号待ちのときは「時間がもったいない」と教科書を開く。
背中に黄色いリュックサックを背負い、教科書一式を入れた。
コットンのズボンを改良し、大きなポケットをズボンに縫い付け、そこにペンから定規から電卓まで全てを入れて歩いた。
授業では一番前の席を陣取り、教授に質問しまくった。
特にビジネスについての質問が多かった。
大学時代の平均睡眠時間は3時間。長くても5時間。
この頃を振り返るとき、孫は自信を持ってこう語る。
「僕は世界で一番勉強した。間違いなく。世界一勉強した」
ずば抜けた成績で、留学生としては異例の学長賞を受けた。
孫正義はホーリー・ネームズ・カレッジの全課程を2年足らずで終え、カリフォルニア大学バークレー校への3年次編入を志望した。
高校1年生の夏に短期留学した憧れの大学である。
ホーリー・ネームズ・カレッジからバークレー校に編入できるのは全体のわずか10%だが、秘書に電話をかけて確認すると、教授会の会議で孫を一番に入学させることが決まったという。
1977年。
孫正義は見事、憧れだったカリフォルニア大学バークレー校の経済学部への編入を決めた。
* * *
カリフォルニア大学バークレー校。
1868年創立。アメリカを代表する公立の総合大学である。
14の学部と専修学校に分かれていて、世界100以上の国からの学生が学ぶ。
孫はバークレー校の自由な校風が好きだった。
特に気に入ったのはコンピュータの設備だ。
24時間いつでも使える端末装置がある。
孫はこのコンピュータシステムを徹底的に利用した。
バークレー校では、Aの成績はクラスで上位5%に限られる。
しかし、孫が特に力を入れて学んだ数学、物理、コンピュータ、それに経済学での成績はオールAであった。
* * *
バークレーでの孫を支えていたのはガールフレンドの優美だった。
孫は優美との結婚を考えていた。
ある日、孫は優美に対して言った。
「仕送りを断ってしまえ。おれも断るから」
そこにはガールフレンドの優美と結婚したいという熱い思いが込められていた。
「結婚すれば養っていかねばならん」
当時の孫は月に20万の仕送りを受けていた。
家族にとっても負担だったので、仕送りを断ることに迷いはなかった。
自分が優美を養っていくことに対しての決意表明でもあった。
しかし...バークレー在学中でまだ将来も未定という時期に、いますぐ仕送りを断って生活できるか。
孫は考えた。
それでもアルバイトだけは絶対にしないと決めていた。
「どうしたらいいだろう?」
思案した結果、1日に5分間だけ、自分に勉強以外の時間を許そうと考えた。
それくらいの時間を割いても言い訳する必要はない。
1日に5分間の仕事をして1ヶ月に100万円以上稼げる仕事はないものか?
孫は本気で考えた。
友達には
"It's foolish." (おまえアホか)
と笑われたが、孫は気にしない。
いくら働いても肉体労働では限界がある。
頭を徹底的に使うしかない。
とはいえ、当時の孫には資本もコネもなかった。
「そうか」
孫はひらめいた。
ひとつだけある。発明して、特許を取って売る。
経営の神様と呼ばれた松下幸之助も、二股ソケットや自転車のランプの発明で世界の電器王となる第一歩目となった。
「そんな前例もある。よし、発明でいこう」
これしかないとなると、迷いはなくなった。
街中を駆けずり回って特許に関する本を大量に買い込んだ。
どういうものが特許として認められるかの要領がつかめたところで、実践に取り掛かることにした。
このとき孫がアイデアを記した発明考察ノート(別名アイデアバンク)には250以上のアイデアが克明に記録されている。
このアイデアバンクの中から在学中に1億円を稼ぐ大発明が誕生したのだ。
孫は発明には3つの方法があることに気付いた。
- 問題解決法 何か問題や困難が生じたとき、それを解決するための方法。必要は発明の母とも言える方法だ。
- 水平思考 従来丸かったものを四角にしてみる。赤いものを白くする大きいものを小さくしてみるというような逆転の発想。
- 組み合わせ法 既存のものを組み合わせる。ラジオとテープレコーダーを組み合わせてラジカセにするように。
孫正義はこの中の「組み合わせ法」をシステマチックに、効率よく行う方法を考えた。
コンピューターを使ったのである。
元々はカードに「ミカン」、「クギ」、「メモリー」などの名詞を思いつくままに書いていた。
300枚ほど作ったカードをトランプのようにめくって3枚抜き出す。
3つを組み合わせると新しい商品が誕生する可能性がある。
これらの名詞を一つ一つのパーツとしてコンピューターに登録した。
そして、それぞれのパーツに
- 新しさ
- 大きさ
- 自分の持ってる知識
- 発明への結びつきやすさ
など、40個ほどの要素を付与した。
300のパーツからランダムに3つ抜き取って、コンピュータで要素に付与された指数を掛け合わせる。
点数の高いものから順番に並べていったわけだ。
1日5分と決めているから、点数の高いものしか見ない。
250あったアイデアの中からひとつ選んだ。
「音声機能付き電子翻訳機」
というコンセプトだ。
- スピーチシンセサイザー
- 辞書
- 液晶ディスプレイ
の3要素を組み合わせたものである。
この発明はのちにシャープで商品化され、電子手帳の原型に当たる商品となる。
* * *
世界で初めての音声機能付き電子翻訳機を作ろうとした孫正義だったが、これを自分で作るには、コンピュータで声を出すというだけで10年、20年かかってしまう。
「おれはあくまで事業家である」
孫は秘策を考えた。
自分でなんでもやるよりも各分野のナンバーワンのパートナーを集めるほうが効率がいい。
一生の時間は限られている。
有効に使わないといけない。
孫は大学の研究者名簿を手に入れ、物理学やコンピュータ科学の教授に片っ端から電話をかけまくった。
真っ先に孫が会いに行ったのはスピーチシンセサイザーの世界的権威であるフォレスト・モーザー博士である。
当然、博士は多忙を極める。
そんな博士に対し、自分の発明した音声機能付き電子翻訳機のアイデアを熱っぽく語った。
「先生のスピーチシンセサイザーを使用したいんです。先生の力が必要なんです」
お金はありません。出来高払い。成功報酬です。
それでもやっていただけますか?お金は試作機ができたら、会社に売り込んで、契約してお支払いします。
この常識はずれな提案はなんと、モーザー博士に受け入れられた。
孫の熱い情熱に賭けてみようと心を動かされたのである。
* * *
孫が生まれてはじめて設立した会社は「M SPEECH SYSTEM INC.」という。
Mはフォレスト・モーザー博士のイニシャルから取った。
幾人かの仲間を集め、プロジェクトが始まった。
チームの中にはUCバークレー校の教授であるチャック・カールソンもいた。
アポロ宇宙船にマイクロコンピュータを搭載したときのプロジェクトを担当したハードウェア設計者である。
孫は神出鬼没だった。
大学の授業に出席するのは当然としても、クラスの合間をぬってモーザー博士に会いに行く。
その足で、プロジェクトのメンバーたちとのミーティングに出かける。
孫の行動力と熱意が、プロジェクトをどんどん発展させていった。
1978年9月23日の正午。
「うまくいった。動いたぞ」
チャックが言った。
試作機の黒い箱のキーボードを叩いた。
"Good Morning"
まず液晶画面に英語が表示される。
次に「翻訳」と書かれたボタンを押すと、画面は英語からドイツ語に切り替わった。
"Guten Morgen"
ドイツ語の音声が機械から発せられた。
「すごい!」
孫は飛び上がって喜んだ。
記念すべき日だ。
しかし、この日は別の記念日でもあることを孫はすっかり忘れていた。
1978年9月23日は優美と結婚式を挙げることになっていた日だったのだ。
時計を見ると約束の午後2時はとっくに過ぎていた。
慌ててて結婚式場(裁判所)に駆けつけても、既に判事は帰ってしまっていた。
孫は結婚式をすっぽかしてしまったが、何かに熱中すると時間を忘れてしまう孫の性格を、優美は誰よりも知り尽くしている。
呆れはしたものの、決して孫を責めることはしなかった。
その一週間後、9月30日の午後3時に結婚式の予約を入れた。
9月30日も試作機をどう世界にアピールするかの議論に熱中した。
ハッと気付くと午後3時を過ぎている。
またしても、孫は結婚式の時間を忘れていたのだ。
孫は慌てて駆けつけて、受付の女性とかけ合った。
「時間に遅れてしまったが、なんとか判事に頼んでほしい」
必死に頼み込む孫に動かされ、遅刻を許してもらうことができた。
「ウィットネスは?」
判事は尋ねた。
結婚の立会人として、誓約書に署名する人物が二人必要なのだが、孫はそのことを知らなかった。
が、孫は動じない。
「ちょっと待っててください」
孫は部屋を出て、受付の女性と黒人のガードマンを連れてきた。
「助けてくれないか?ぼくたちの結婚の立会人になってほしい」
気さくなアメリカ人らしくあっさりと引き受けてくれた。
1978年9月30日。
判事の前で優美を幸せにすることを誓った。
このとき孫は21歳。優美は23歳であった。
* * *
世界初の音声機能付き電子翻訳機を発明した孫は、日本の家電メーカー50社に発明の趣旨を書いた手紙を送った。
そのうち、キヤノン、オムロン、カシオ、パナソニック、シャープなどの10社から返事がきた。
孫は夏休みを利用して、モーザー博士とともに日本に帰ることにした。
絶対的な自信があった。
しかし、一つ目の会社も二つ目の会社も同じような反応。
「もう少しましな形になったら考えてもいいよ」
本命のカシオにもぼろくそに言われた。
このとき以来、今に至るまで孫はカシオを一度も尋ねていない。
カシオにぼろくそに言われた翌日、孫は大阪・阿倍野区にあるシャープ産業機器事業部にいた。
数人の部下を引き連れた担当部長はこう言った。
「製品化がうまくいけば可能性はありますね」
スバッと核心をつかれた。製品化となると未知数である。
孫は一瞬、言葉に窮した。
だが、交渉の余地はある。
ここからの孫の行動は早かった。
公衆電話から大阪の弁理士会に電話を入れ、シャープとつながりのある特許事務所を調べた。
そして、孫の発明が特許に値するか調べてもらった。
特許に値することを確認した上で、シャープのキーマンを紹介してもらうことにした。
「誰と交渉すればいいですか?」
と尋ねている孫は、このときまだ20歳の大学生である。
当時シャープの技術本部長をしていた佐々木正専務の名前が挙がった。
「その人に『私と会うべきだ』と電話してくれませんか?」
孫は弁理士に頼んだ。
翻訳機が特許に値することを確認したばかりの弁理士は、孫の申し出を断ることはできなかった。
「佐々木専務が会うとおっしゃってます」
孫は弁理士に翻訳機の特許手続きを依頼し、佐々木専務とのアポを取り付けた。
* * *
佐々木専務との面会には父・三憲と一緒に行った。
奈良県天理市にあるシャープ中央研究所。
佐々木の前で、孫は慎重に風呂敷包みをほどいた。
孫が説明をはじめると佐々木の表情が一変した。
「おもしろい!」
コンピュータソフトを知り尽くしている佐々木には、このアイデアは画期的なものに映った。
さらに孫は、改良を加える必要があることも説明した。
このときの孫の様子を佐々木はこう語る。
「他社に売り込みに行ったのに相手にされなかったので、最初は元気がなかったが、試作品のデモをしはじめると表情が一変した。
自分なりの信念を持っている。金儲けにきたんじゃないとわかった」
佐々木は「こういう若者はめったにいない。育てなければならない」と思った。
若い頃から「夢を持つことが新製品開発の第一歩」と信じてきた佐々木にとって、孫はまさに夢を持った若者であった。
「この男の熱意に賭けてみよう」
佐々木は孫に惚れ込んだのである。
特許の契約金として即座に4,000万円が支払われることになった。
はじめての契約が成立した。
さらに佐々木はドイツ語版、フランス語版の翻訳ソフト開発を孫に依頼する。
契約料の合計はおよそ1億円。
孫が大企業を向こうにまわして、日本で生まれてはじめて勝ち取ったお金である。
在学中に1億円を稼いだエピソードについて、孫は「100万ドルの契約」と表現することを好む。
孫の青春の汗と知恵と努力の結晶であった。
- 作者: 井上篤夫
- 出版社/メーカー: 実業之日本社
- 発売日: 2015/01/31
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る