生産性を下げる無駄な定例会議はなぜなくならないのか


自分の時間の使い方を手帳に記録しながら振り返ってきて、最も時間を使っているのは突発的に入るタスクなどではなく、「定例」と呼ばれる「決まった時間、決まった曜日に開催される何か」であった。

仕事では「定例会議」と呼ばれる会議が何個も入っている。
これは私の職場に限ったものではなく、多くの職場でも同じだと思う。

月曜日の10時からは会議A
火曜の14時からは会議B
水曜の15時からは会議C

というように、様々な「定例会議」が設定される。

「定例会議」は一度設定してしまうと、「やめる理由」が見つかるまで継続されてしまうもので、増やすのは簡単だが減らすのは意外と難しい。
最初は意味があった定例会議も徐々に意味をなくし、「集まって報告することが目的」のようになってしまう。

それでも定例をやめると「やるべきことをサボっている」ような感覚になるからなのか、定例を削減しようとする人は少ない。
立場が上がるにつれて参加しなければならない会議も増えて、ある偉い方は平日の日中のほとんどの時間、つまり平日5〜7時間以上が定例会議で締められているようだ。

会議は増やすのは簡単だが、誰かが言い出さないと減らすことはできないのだ。


定例会議自体に意味がないわけではない。

定期的に状況を共有する機会があれば、誰が何をやっているのかがわかるし、定例会議には面倒なことを強制させる力がある。
サボってしまいがちな進捗資料の更新や報連相的な作業も「定例会議」があれば継続できるだろう。

チームでの活動に一定のリズムを生み出す効果もあるはずだ。

このように良い面もあるため、定例会議の全てを否定することはできない。

それでも定例会議は無条件に一定の時間を奪い続ける性質があるのは事実で、それでも定例会議を設定するならば、

「定例会議を入れずに済む最大限の努力をした上で、必要最小限のメンバーを呼ぶこと」

を心がけるのが良いのではないだろうか。

...と、僕は常々思っているのだが、周りの人は誰も同じようなことを言い出す人はおらず、どちらかというと定例会議を増やすことに全く抵抗がない人が多いので、僕の考え方が間違っているのかもしれない。



定例会議には様々な事情があれど、絶対的に悪なのは惰性で続けてしまい、集まることが目的となっているような会議である。


「定例会議が全て消えた日:日本企業にも是非実施して欲しいシリコンバレー企業の生産性向上対策」というハフィントンポストの記事が興味深い。

会議の数が多すぎる、目的がはっきりしていない、多過ぎる参加者、報告を読み上げるだけで真のディスカッションも意思決定もない、会議室の確保だけでも厳しいということをよく繰り返し聞く。
このように多くの人が好ましくないと思っている状況が、何故変わらずに今まで続いてきているのかは本当に謎である。

複数の学問的な調査も、以下のような明白な事実を挙げている:多過ぎて目的が明確ではない会議は無駄となり、結果的に組織の大きな負担になる。
生産性が注目されている現在では、その逆とも言える会議を変える必要性が訴えられている。


定例会議が全て消えた日:日本企業にも是非実施して欲しいシリコンバレー企業の生産性向上対策

「なぜ多くの人が好ましくないと思っているような会議が今まで続いてきているかは本当に謎である」

と述べられているが、理由は以下のようなものではないだろうか。

  • 伝統的に「定例会議を入れること」が「仕事の定石」だと考えているから
  • 「定例会議にみんなが参加すること」が大事で、「こんな会議は俺には不要だ」と言って参加しないと、集団の和を乱してしまうから(和をもって尊しとなす)
  • 「忙しくすること」は美徳と捉えられがちで、逆に「今までやってきた何かを削ること」は不真面目に捉えられがちなので、「定例会議をやらない」と言いづらい
  • たとえ内心無駄だと考えていても、「定例が必要だ」と考える人の方が正義に見えて、言い出せない
  • たとえ非効率でも「全く意味がないもの」にはならないため、やらない理由を探すのは難しい


中でも一番下の「全く意味のないものはない」のが間接的な理由となって、続けられる慣習は多いように感じる。

職場には「とにかくルールを遵守すること」を重んじる人がいて、そういう人は「決められたことをやらない」ことに、ものすごくうるさい。
そういう人は会社に対する忠誠心が強いハードワーカーが多いため、無駄を削減してさっさと帰るよりも、「少しでも効果があるものは何でもやる」という人が多い。

何でもやろうとする姿勢は素晴らしいが、一度やってしまうとやめられないのが問題だ。

ハードワーカーは効率を量でカバーし、それを暗黙的に周りに強いる傾向がある。
そのため、非効率的なルールが温存され、組織が疲弊していく遠因となっているように思う。


「一生懸命やること」は社会の最低限のマナーであり、常識であり、ルールだ。

定められた定石、伝統は守ることを重んじている人は、組織の常識を疑ってゼロベースで必要かどうかを合理的に判断することを苦手とする。

根性があって真面目な人ほど、「やっていたことに意味があるのか」を考えるのが苦手である場合が多い。
これは会社に限らず、体育会系の部活動などにも大いに当てはまる。


そしてどんな作業であれ、「完璧に無駄であること」を証明することはできないのだ。

無駄を証明できない限り、「やっておいたほうがいい」という論説が勝り、限られた時間を消耗していく。
世の中にはバシッと費用対効果が出せないものはたくさんあり、「無意味であるとは限らないもの」は継続されて、時間を奪い続けるのだ。


なので、僕が個人的に、今後組織の中で取り組みたいのは、「どれくらい効果が出ているのか」をフィードバックして検討する機会を設けることである。

組織は多数派の論理で動く面はあるので、たった一人で「それは意味がないだろう」と主張してもただの頭のおかしい人になってしまう。それだとただの跳ねっ返りの痛い人間だ。

そんな痛い人間化を防ぎつつ、仕組みとして「効果が高いものを残し、効果が薄いものは思い切って削減するルール」を導入することで、使える時間が増やせるのではないかと期待している。

組織は常に合理的に動くとは限らず、会社で何かを始めるにはねちっこい根回しとか、人の感情に配慮したりとか、そういう泥臭い作業が地味に大切なのだ。