ツイッターを通じて人にお会いしたときに、「ブログの感じ、前と全然変わりましたね」と言われたことがあります。
ブログの書き方は意識して変えたんですが、何が変わったのか、というのをちゃんと言葉にできていなかったので、改めて振り返ってみました。
今回は、特に恋愛とは関係ないので、ほとんどの人にとっては意味のない記事かもしれません。
基本的にはそっ閉じ(ブラウザをそっと閉じる)推奨です。
まず、前と大きく変わったのは、意識の向け先です。
以前ブログを書いていたときは、ほとんどGoogleとはてブだけを意識して記事を書いていました。
ツイッターなどのナンパクラスタや、恋愛工学クラスタなどの存在は認識していても、
実体を伴って自分に関わるものとは思っていませんでした。
ツイッターを通じて見えるものは、あくまで無機質な文字列でしかなかったわけです。
Googleを意識するとは、検索を意識するということです。
すなわち、キーワードを意識する。
検索に引っかかりやすいキーワードをタイトルに散りばめ、SEOに強いとされている、はてなブログを使いました。
そのため、タイトルはやや不自然に長くなっていたかと思います。
SEOというのは、Search Engine Optimizationの略で、検索結果の順位を最適化するための手法という意味で使われます。
様々なブログサービスがありますが、はてなブログはSEOに強く、その他の機能もモダンで使いやすいと思っています。
(アメブロは自由度が低いので苦手です)
インパクトを強くするために、煽動的なタイトルや、強い表現も使うこともありました。
煽動的なタイトルは見る人のインパクトを大きくし、時に怒りを生み、それははてなブックマークでの拡散の一助となります。
煽るということは、感情を動かすという意味でもあります。
それは時に、人を動かすきっかけとなります。人はロジックでは動かず、感情によって動くからです。
そして、煽るような文章を書く代わりに、僕本人とブログの実体はなるべく結びつかないようにしようと思っていました。
僕が考える真実を文字にし、それが誰かに影響を与えることができるならば、僕という実体は必要ないと思ったからです。
それに、煽動的な文章で誰かを不快にするということは、大きなリスクと隣り合わせでもありました。
誹謗中傷のリスクです。
だから、もし自分のアカウントが自分の実体と結びついたときは、速やかにフェードアウトしようと考えていました。
ブログを始める前に、メインとなる読者層をイメージします。
以前僕がメインターゲットとして考えていたのは、
「検索エンジンを使って救いを求めてくる非モテ」
でした。
幸い、僕の最も親しい親友に、この世の全ての非モテの要素を兼ね備えた非モテ王がいました。
王が失敗するたびに、いつもなぜダメだったのかを考察していたので、ネタに困ることはありませんでした。
問題は、その反省内容を本人にストレートに伝えることができないことでした。
いつも遠回しに、傷つけないように話してた。
性欲は恐ろしく強いのに、高いプライドが邪魔をして、素直にアドバイスを受け入れられない。
何か言ったら、すぐ機嫌が悪くなる。
本人も「俺の何が悪いのかわからない」と言う。
次から次へと女の子を紹介しても、一向に結果が残らない。
ただ、プライドが高い人でも、自己啓発本のメッセージは素直に受け取ったりしますよね?
それと同じで、たまたま検索した時に、そこで見つけた記事に何か救いがあるのなら、素直に受け取ってもらえるのではないかと思っていました。
そういう意味で、やっぱり僕は、「検索エンジンと、その向こうにいる実体のない非モテ」の偶像に向けて、記事を書いていたわけです。
王だけではなく、救いを求める普通レベルの非モテの人にも、何か響くんじゃないかと思いながら。
それから、情報収集のためにツイッターを始めました。
ただの情報収集ツールとしてツイッターを始め、好き放題つぶやいていたのですが、そのうち、徐々に自分のアカウントが人格を持ち始めました。
そのアカウントにリプライを飛ばしてくれる人や、リツイートしてくれる人が徐々に増え始めてきたのです。
最初は、初心のとおり、「人との繋がり」を避けてきました。
「実体のない匿名の誰か」でいることは、好き放題記事を書けるということです。
実体さえ無ければ、何かあってもリスクは小さい。
でも、ツイッターで誰かがリプライを飛ばしてくれるのはやっぱり嬉しい。
やっているうちに、昔mixiで日記を書いていた時に、友達がコメントをくれたときのような、嬉しい気持ちが芽生え始めました。
それが、僕というアカウントが実際の自分と結びつき始めた瞬間でした。
ツイッターの向こう側にいる人がだんだんと好きになってきた。
それと同時に、もう取り返しのつかないくらい煽りに煽った文章があったため、いまさら人に会うことはできないというジレンマもありました。
一度ブロックされた女の子との関係の修復が難しいように、いちど人間関係をブロックすると決めてしまうと、後からいけしゃあしゃあと人に顔を合わせるわけにはいかないのです。
そんな葛藤の最中、起こったのは身バレ事件でした。
自分は基本的には嘘はほとんど書かないため、実際に会ってる人から見たら、だいたいのことが想像できてしまいます。
なので、たまたまブログを見つけられてしまった場合、僕の実体と、高い確度で結びついてしまいます。
いま振り返ると、ブログが非モテ王に届いてほしいと願いつつも、非モテ王に届いてしまった時は、そのアカウントを消滅させなければならないという矛盾をはらんだ存在でした。
「構造的な歪みは現実化する」と書いていたのはゴッホさんの好きな橘玲だったでしょうか。
日本の財政だけではなく、ブログのアカウントにおいても、構造的な歪みはいずれ現実化することが明らかになりました。
そして、非モテ王には届かぬまま、アカウントは死に絶えました。
復活する時に意識したのは、アカウントの死に直結する不都合な真実は書かないこと。
そして、画面の向こうにいる人を意識することでした。
長らくツイッターを見ていると、もうツイッターの向こう側にいる人を、ただの文字列として見ることはできなくなってしまったからです。
「人を意識する」ということは、相手の気持ちを想像するということです。
昔、聖徳太子という偉いオッサンが「和を以て貴しと為す」と言いました。
人との繋がりを持つということは、和を重んじる気持ちを持つこと、と言い換えることができます。
Facebookへの投稿と手帳に書く日記が違うように、「伝え方」を考えて記事を書かなければいけません。
何か伝えたいことがあるときも、表現をできるだけ穏やかで人を不快にしないものに。
直接的に伝えるのではなく、間接的に伝えるなどです。
このように、「人を意識するか、Google(プログラム)を意識するか」の違いが、
以前とのブログの印象の違いに結びついているんじゃないかと思っています。
ただ、どちらも根っことなる僕という人間は、そんな短期間に変わるものではないので、言葉の向こうにある実体は同じです。
伝え方が変わっただけだとも言えます。
昔のブログの方が面白いと言ってくれる人がいたりもしますが、
どちらかというと、今のブログの方が愛着はあります。
江戸時代。柳生石舟斎という偉い剣豪(ジジイ)がいたのですが、彼は
「技の研鑽に終わりはない」
と言っていました。
僕のブロガー生活もまだ始まったばかりです。
伝え方の研鑽は、まだまだ続きます。
1年後には全く変わった文章が生まれているかもしれません。
もしかしたら将来は、恋愛については全く書かなくなるかもしれません。
だから、ブログのタイトルには、「ナンパ」とか「恋愛」という言葉を入れないようにしました。
自分の変化を楽しみ、できるだけ、後に残しても大丈夫なように、言葉を紡いでいきたいと思っています。