合コンを成功させたいときは、テクニックよりもまず楽しめ



大学時代は星の数ほどの合コンをしてきた。

特にひどかったのは大学二年のときだ。

ひどすぎて年間で8単位しか取れなかったくらいだが、もし「全国合コンを開いた数選手権」が開催されたとしたら、おそらく全国の大学生で5本の指に入るほどの開催回数だったのではないかと自負している。

いや、もしかしたらとんでもなくチャラい慶應大学生には及ばないかもしれないが。

大変心外だが、大学では「チャラい奴」というレッテルを貼られてしまい、知らないサークルの会ったこともない男に

「彼は危険だ。気をつけたほうがいい」

と言われていた。
その話を女の子から聞いたとき、「なぜお前は『近づかない方がいい』と言われている男と遊んでいるのだ」と小一時間位問い詰めたかったが、女は子供と同じで危なっかしいものに興味を持つものらしい。


「類は友を呼ぶ」は真実なのだろう。
一緒に遊ぶ仲間たちはノリが軽くてチャラチャラしていて、軽薄な男が多かった。

合コンを通じて色んな友達ができたし、合コンによってつながったからこそ似たような奴らが集まったのだと思う。
僕たちは僕たちなりに必死で生きて、あの輝かしい大学時代を楽しんでいた。

あれほど自由で、あれほどエキサイティングな日々は会社員生活のうちに取り戻すことは難しいと言わざるを得ない。
僕はずいぶんと大人になってしまったし、周りの友人も年を取って、守るものができてしまった。

近くの女子大や看護大の子と合コンすると、4回に1回くらいはいわゆる「入り乱れた」状態になった。
なんとも夢のある話だとは思うが、大学中からイケメンを集めスカウトしてきたのだ。

そうなるのは当然とも言える。
さらに言うならば、イケメンを集めすぎてしまったせいで、他の奴が入り乱れていても僕自身はただの幹事で試合終了してしまい、全く美味しい思いができなかった。
誠に遺憾である。


春は曙。夏は夜。
夜のビアガーデンで知らない大学の子と仲良くなって、そのまま家で飲んで面白い結末に至ったこともあった。
カラオケに行けば、曲に合わせて馬鹿みたいに一気飲みして、立てなくなるくらいに飲んだ。

相手の女の子も若かったし、僕たちも若かった。
若さゆえの勢いがあったのだ。

ここまで語りに語って、昔語りの自慢をしている老害のように見えたかもしれないが、伝えたいことはここからである。

僕は大人になって様々な技術を身に付け、色々な理論を学んだ。
女の子を意図的にディスったり、女の子と駆け引きすることを覚えた。

それでもいま思えば、デートや合コンでの成功率は大学の頃の方が高かった。

大学の頃の僕たちは金もない。
社会的な地位もない。

何もなかった。
持っていたのは漠然とした期待感と、その場を全力楽しむメンタリティだけだった。

笑って。泣いて。君と出会えて。見える世界はゲロまみれのトイレと言わんばかりの生活で、とにかく楽しむことが全てだった。
「結果」は二の次だった。

トイレが恋人のTという男は毎回トイレ掃除をさせられることから仲間から「ドクター・ゲロ」と呼ばれていた。

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一気飲みが楽しかった。女の子も楽しそうに飲んでいた。
特に看護大学の女の子たちの一気飲みコールは殺人的だった。

社会人になって、一気飲みなんてする人は誰ひとりとしていなくなってしまったけど、実は僕はあの飲み方が好きだ。

人を救うために勉強しているはずの看護師の卵が僕を倒すためにコールをかけてくる。
彼女たちのコールからは明確な殺意を感じた。俺はその殺意を包み込むような愛で受け止めた。

カラオケに行って、下心は二の次にして、マキシマムザホルモンを歌いながらひたすら踊ってた。
俺は歌が下手だけど「恋のメガラバ」のデスボイスだけは得意だった。

合コンにテクニックは必要か

女の子を落とすためのスキルを「ルーティーン」と呼ぶ。
様々なルーティーンを知ってしまった今だからこそ改めて思う。
僕が求めていたのはあの頃みたいに楽しく飲むことだったんじゃないかって。


女の子と飲み会をするとき、「ルーティーン」と呼ばれるお決まりのパターンに当てはめる。
そのときは数学の問題を解くみたいに、「結果」に向かって駒を進めていく楽しさはある。

「定型トーク」を使って、”その先“に進むハードルを下げて、あるタイミングでギラつく。
そのためにサインを送って、女の子を別の部屋にセパレートする......

それらのテクニックは東京の女遊びを生業とする男たちの中で広く語り継がれていて、合コンの“その後”の成功確率を高める方法論として確立されていた。

将棋に定石があるように、女を落とすテクニックにも定石があったのだ。
先人たちが築き上げたルーティーンを否定することはできない。


しかし最近になって、僕は知識馬鹿になってしまっていて、合コン中にルーティーンに捕われすぎていたのではないかと思い直し始めた。

僕が求めていたのは、ルーティーンに習熟することだったのだろうか?
ルーティーンの正しさを証明して、経験人数を増やすことだったのだろうか?

それは違う。
予想外のハプニングこそが人生だ。

たしかにテクニックは成功率を上げる。成果につながる。
しかし成果主義はビジネスでは正しいが、趣味の世界に成果主義を導入したらそれは趣味ですらなくなってしまう。


「勝ち」とか「負け」とか考えずに、仲間と浴びるように飲んで笑って、「今日は飲み過ぎちまったな」と安いラーメン食いながら反省会したあの日々が楽しかった。

誰かが“その後”に成功したらみんなで祝杯をあげ、可愛い子がいたら皆で鼻の穴を広げて興奮して話した。

楽しかったな、またやろうな、と再会を誓って各々が帰路についた。

そんな風に心から「あー楽しかった」っていう思い出を、仲間と一緒に作りたい。
結果として、それは自分が楽しむことにつながり、楽しい雰囲気は女の子にも伝わるものだ。

テクニックにこだわった合コンはどうしても不自然になってしまうのである。
機械的ともいう。

ありきたりなパターンに落とし込むためにテクニックを駆使するのはいいが、テクニックは予想外の展開に弱い。
人間は公式通りには動かないし、応用問題はいくらでも出されてしまうのだ。

そこで無理に公式に当てはめるのではなく、自然体でその場を楽しむこと。
結果として“次”につながればそれでよし。
そうじゃなくても楽しめたからOK。

「楽しむ」ことを主軸において合コンをしたらいい。
「結果」を主軸におくと、合コンを全然楽しめなくなる。
結果にこだわればそれは趣味ではなくなってしまうからだ。

ほどよく肩の力を抜いて、適当に笑いながら話すのがいい。
ナチュラルなコミュ力で相手に接したらいい。

相性が良ければ結果は自然とついてくる。
結果がついてくるまで何度も繰り返せばいいのだ。
いちばん大事なのは、自分が自分の主観で、その場を楽しむことができたかどうかなのである。