LINEの非表示リストを見ると、おびただしい量の死んだアカウントの残骸が残っていた。
それらを全て消す作業の中、ナンパし始めたここ半年に思いを馳せた。
半年間で積み上げた死んだIDの数々。
このアカウントが俺の中で息を吹き返すことはないだろう。
学生生活や社会人になってから築いた人間関係に比べ、圧倒的に脆く、薄い関係だった。
学生の時に合コンで知り合った女の子は、mixiで友だちになって、その後はFacebookでつながり、今でも投稿にコメントし合うような仲の子が多い。
でも、ここ半年で道端で出会った子で、Facebookでつながるような女の子はほとんどいなかった。
振り返ると、薄い関係になるのは当然だったのかもしれない。
俺自身がそういう関係を望んできたからだ。
出会った女の子のほとんど全ては代替可能なものだと思っていた。
その子に既読スルーされて連絡がつかなくなっても、別の誰かを探せばいいと思っていた。
だから、その子と一切連絡が取れなくなっても、何も気にならなかった。
既読スルーされた子は、最初から存在しなかったことにしていた。
親指を右から左に動かすだけで消せる薄い人間関係によって、自分が傷つくことはなかった。
誰にも傷付けられることがないのと同時に、誰とも向き合っていなかった。
そうすることによって、心にダメージを受けることなく、失敗を恐れず女の子に向き合うことができた。
それが正しいと思っていたし、皮肉にも、雑に扱えば扱うほど、女の子はこちらに関心を示してくれた。
女の子と遊ぶことを「アポ」と言った。
アポ中の女の子の会話の多くは、正直なところずいぶんつまらなく感じたし、つまらないと感じた会話を後から振り返ることもなかった。
反復なきものは記憶に残らないように、会話の多くはほとんど覚えていない。
俺はその子の人間性を見ていたわけじゃなく、その子を落とすことだけを考えていた。
一つ一つの出会いが軽かった。
次から次へと新しい出会いがあったが、そのどれもが、「次にくるアポ」と大差ないものだった。
アポは身体を抱くためのゲームのようだった。
俺は、何かを学べるわけでもなく、お金やキャリアにつながることもなく、ただ時間を潰すだけの、なんの生産性もないクソみたいな時間を、一緒に過ごすだけで幸せになれる、そんな恋がしたいんだよ。
— ヒデヨシ (@np_hideyoshi) 2015, 5月 23
先日、こんなツイートをした。
本心だった。
でも気付いたんだ。
できるわけがないって。
当たり前だ。誰とも向き合ってこなかったんだから。
たくさんの女の子に会って、たくさんの関係を結んだ。
たくさんの関係を結ぶときはいつも、心のなかで保険をかけていた。
「この子がダメでも、他がいる」
保険をかけると気持ちが楽になったけれど、これは逃げだった。
向き合うことから逃げていたら、たぶんこの旅は一生終わらない。
テクニックの問題じゃない。
「マインド」なんてカッコつけた言葉でもない。
気持ちの問題だ。
相手とまっすぐに向き合う気持ちで、人に接する。
最初、俺は「女の子を代替可能なものとして見ていた」と書いた。
その人との関係をかけがえのないものにするのは、一緒に積み重ねた時間だろう。
ここ半年で、何かを共に積み重ねた人はいただろうか。
もしかしたら、何の時間も積み重ねていない相手は、お互いに、代替可能なものなのかもしれない。
相手がそうであっても、自分は一人ひとりとまっすぐ向き合いたい。
そこに何かを積み重ねていけることを期待しながら。
これからは、相手と逃げずに向き合うことを誓う。