会社を辞める人が「無敵の人」になってしまうのはなぜか




このブログでは自らへの戒めの意味を込めて、

「いざというときに転職できるように自分の市場価値を重視していくべきだ」
「会社は自分が幸福にあるための手段に過ぎず、会社勤めが目的ではない」

というスタンスを取ってきた。

「転職」という選択肢があれば、理不尽な状況に陥ったときに脱出することができるからだ。

選択肢を持てば労働者は強くなる。

しかし一方で、「選択肢がある強い労働者」が「無敵の人」になったときは、仕事がひどく雑になることにも気付いてしまった。
「無敵の人」とはインターネットから生まれた用語で、「失うものがない人は何をやってもいいという気分になり、無敵になる」というニュアンスで語られる。


関連記事:インターネットの「無敵の人」から身を守る方法


3月は別れの季節である。
退職を予定している人がチラホラ出てきて、そこら中で引き継ぎが始まっていた。

そんな引き継ぎの様子を横で見ていて痛感するのは、

「辞めることが決まっている人の半分くらいは仕事に対してものすごく無責任になる」

ということだ。

「辞めることが決まったから最後まできっちり仕事をしよう」という人は実はそれほど多くない。

「どうせ辞めるのだから」

と予定していた仕事を投げ出して休みを入れたり、仕事が終わらなくても早退したりと本当にやりたい放題になってしまう人もいる。

有給休暇は労働者の権利だから自由に取るべきだし、それをいちいち制限されるべきではないというスタンスを取り続けてきた。
しかし転職先が決まって「無敵の人」化した労働者の振る舞いは想像をはるかに超えて無責任なものであり、あんなにしっかり仕事していた人がここまで堕落してしまうものなのかと驚くほどであった。

「無駄な残業はせず、さっさと仕事は終わらせて、自分の時間にやるべきことをやる」のが正しいと考えてきた身としては複雑な気持ちになってしまう。
さっさと帰るのは賛成だが、無責任になってしまってはいけないのだと、合理性を超えた自分の美徳・倫理的な部分が警告してくるのだ。


人間が規律を守り、厳しい環境でも投げ出さずに自分を律していけるのは、あくまで社会の中に組み込まれているからだ。

「社会の中に組み込まれる」というのは、「組織の中で活動し、そこでの評価が蓄積し、継続していく仕組み」の中で生きるということである。


退職する人はその仕組みから脱出するので、評価機能が正常に機能しない。

次の職場では評価がリセットされるため、「現在の職場で働いている期間はできる限りサボるのが得」というインセンティブが働いてしまう。
人間はインセンティブに忠実にならざるを得ない面もあるため、サボりの誘惑に勝てない人は歯止めが効かないくらい無責任になってしまうのだ。

なので、基本的には「辞めていく人」に最後の仕事を任せるのは得策ではない。
仕事を途中で投げても何も問題が発生しないため、「面倒になったら逃げる」という道を選んでしまう可能性がある。
もし逃げ出したとしても責任を取ってもらうことはできないのだ。
その結果、引き継ぎもこなしきれずに尻切れトンボになってしまうことがけっこうある。

評価がタコツボ化していることが問題

f:id:hideyoshi1537:20190314065448p:plain

なぜこのような問題が起こってしまうのかを考えた。
一部のウェブ系の企業だと、会社間の横のつながりが強い。

勉強会を通じて人と人がつながり、評価は社外に蓄積していく(と思われる)
ツイッターアカウントがオープンにされて、運営しているブログやライトニングトークの資料にアカウント名が記載される。

一方で、多くの日本企業に当てはまるとは思うが、評価が組織の中に閉じてしまっている場合、基本的に組織を離れたら評価はリセットされてしまう。

転職の面接で見られるのはごく一部の面でしかない。
その人が前の職場でサボっていても、その悪評は組織の外に出ていかない。

これが会社を超えた横のつながりが強く、個人で評価されるような環境ならば、「サボりまくってヤバかった人」は組織を超えてすぐに噂になる。
評価を社外に持ち出すことになるため、ポジティブな評価は次の職場にも引き継がれる一方で、ひどい仕事をしたらその悪評もついて回ることになる。

そのため、会社員としては「良い仕事をして、良い評判を集めよう」というインセンティブが働きやすい。

「評価が個人に残る」ようなシステムを作ることは、自由な選択肢を持つ労働者が高いアウトプットを出し続けるインセンティブとなる。
評価が個人に残れば、労働者が「無敵の人」になって、好き放題やることはできない。
それはとても健全なことだと僕は思う。

伽藍とバザール

橘玲先生の本には「伽藍とバザール」の話がよく出てくる。
伽藍というのはお寺のお堂とか聖堂のように、壁に囲まれた閉鎖的な場所だ。
それに対してバザールは、誰でも自由に商品を売り買いできる開放的な空間をいう。

バザールは参入も退出も自由なのが特徴なので、商売に失敗して「あいつ、ぜんぜんダメじゃん」といわれたら、さっさと店を畳んで別の場所で再チャレンジすればいい。

伽藍は誰でも参入してきて、誰でも商売を始められる場所なので、普通にやっていればジリ貧になってしまう。
だから伽藍で生きる人間の基本ルールは

「失敗を恐れず、ライバルに差をつけるような大胆なことに挑戦して、一発当てる」

ことになる。

バザールの必勝戦略は「良い評判を集めること」でもあり、それゆえにバザールのゲームはポジティブゲームとなる。

伽藍の特徴は参入が制限されていて、よほどのことがないと退出できない。
このような閉鎖空間だと、悪評がずっと消えないまま残ることになる。
年功序列・終身雇用の会社でその人の悪評が残ってしまうように。

競争がないため、どこにでもある商品をふつうに売っているだけでとりあえずお客さんが来て商売が成り立つ。
伽藍のゲームの最適な戦略は

「失敗するようなリスクはとらず、目立つことはいっさいしない」

となる。

伽藍の必勝戦略は「悪い評判(失敗)」をできるだけ少なくすることである。
これはバザールの「ポジティブゲーム」とは異なり、「ネガティブゲーム」となる。


伽藍の例は学校である。
簡単に転校などできないため、1年生のときについた悪い評判が学年を上がってもついて回るのだ。

もう一つの典型的な伽藍として、終身雇用を前提とした会社組織が挙げられている。
終身雇用の組織は伽藍の世界なので、失敗しないことが何よりも重要となる。

伽藍の世界でネガティブゲームを強いられる日本サラリーマンが会社を憎むようになるのは当然だ、と橘玲先生は論じている。


人生は攻略できる

人生は攻略できる

ポジティブゲームとネガティブゲーム

上の方に書いた「個人の評価を外に持ち出せる世界」ではポジティブゲームが基本となる。
同時にサボりまくっている人の悪評も共有されてしまうので、労働者としてはサボリーマン戦略を取りにくい。

バザールでは「悪評がリセットされる」としている橘玲先生とは見解が異なるところだが、オープンな環境で評価される世界ではポジティブゲームが基本となる、という点は同じである。

ネガティブゲームは政治の世界だ。
合理的に動くよりも、忖度と細やかな気遣い、根回しがとても重要になる。
政治が得意な人には居心地が良いが、苦手な人には生きづらい。

伽藍は閉じた世界なので、過去の評価は引き継がれない。
伽藍Aから伽藍Bに脱出することが決まった人は、「無敵の人」化への誘惑と闘うことになる。

無責任になったほうが楽なのだ。
「憂鬱でなければ仕事じゃない」なんて偉い人が言っていたけど、責任を持って仕事をまっとうすることは、多少なりとも憂鬱な要素を含むものである。無敵の人はそんな責任から逃げることができる。


バザールの世界に生きる人がポジティブな評価を得るために躍起になって働くのに対し、伽藍で生きる人はミスしないことが基本戦略だ。
個人としてどんな世界で生きるのが楽しいかと考えると、僕はやっぱりポジティブゲームの世界で生きたい。
それが合理的だからというよりも、やっぱり本気になって仕事をしているときの方が楽しくて充実するからだ。

達成感や生きがいや、震えるような感動は、本気で取り組んだ仕事からしか得られない。

生きている間に感動体験をどれだけ得ることができるか、というのは「充実した人生」を送るための良い基準となるはずだ。


関連記事:会社員の合理的な働き方は、蓄積される資産から考えよう