最近のツイッターでは「その男はモラハラだ!」と他人を糾弾するモラハラ警察が増えている。
ハラスメントは「人が困ること、嫌がらせ」という意味だ。その中でもモラハラ、すなわちモラル・ハラスメントは「精神的な嫌がらせ」を指すらしい。
ツイッター上の文脈では、
- 人の尊厳を踏みにじる振る舞い
- 愛情表現と見せかけて他人を支配する行為
- 人をモノ扱いする行為
などをモラハラと判定する傾向があり、日々誰かのエピソードを見つけては「その男はモラハラの傾向がある!」とかつてのモラハラ被害者たちが声を荒げている。
最近、彼氏に教養を学んでほしいと言われたQ子さんが話題になり、ツイッターのモラハラ警察がざわめいていた。
引用リツイートで「彼にはモラハラの傾向があります。気を付けてください」と警告した人もいたし、彼女のツイートを遡って「彼氏がモラハラ加害者である証拠」を探し出す人もいた。
件の女の子のツイートを遡ってギョッとした。ああ、これをやれちゃう人はダメだ。分かる人にしか分からない感覚だと思うけど、これをやれちゃう人は本当にダメ。怖い。 pic.twitter.com/DfF9sdE6Z1
— くろ (@kurodewa) 2019年6月15日
こんなモラハラ警察に対し、Q子さん自身は少し困惑しているようにも見える。
きっとみんな、プリンや歴史マンガや教養を強要されて、過去にひどい目に逢ったんだな。
— Q子 (@qko611) 2019年6月17日
私のツイートに何かリンクする構文かなんかがあって、思い出させちゃったんだよな。
悪かったな。
本人は幸せなのだ。
ハラスメントかどうかを判断するのはあくまで本人であり、他人ではない。
そして愛情表現も人それぞれだ。
毎日連絡してほしいカップルもいれば、お互いの時間を尊重したいカップルもいる。
彼はなんだか偉そうだけど、強気で尊敬できるところが大好きというカップルもいる。
自分のことを賢いと思っている男が、何でも知ってそうな顔で偉そうに知識自慢をする姿に脳天が痺れる、という女だっているのだ。
男女の恋愛は優しければ報われるものでもないのは誰もがわかっていることだろう。
常識的には相手の女性を尊重し、大切にし、想いを汲み、優しくするのが理想だ。
しかしそういう優しい男が女に愛されるかというと、そうでもない。
人の魅力は優しさだけでは測れないのだ。
もちろん、彼氏でも何でもない男が偉そうにしてきたら「モラルハラスメントだ」と断定してもいい。
ただの知り合い程度の男に尊厳を踏みにじられたときは、断固として立ち上がり抗議するべきだろう。
その抗議には何の問題もない。
しかし愛し合う男女に対し、「お前の彼氏はモラハラ男だ」と追求するのは筋違いだ。
二人の関係性は他人からは見えないからだ。
高いレストランに連れて行ったり、高価な指輪をプレゼントしても(されても)何も響かない男女の関係もある。
一方で、普段はどうしようもない彼氏が年に一回、サプライズで買ってくれたちょっとしたイヤリングをずっと大切にするような関係もあるのだ。
後者の男は他人から見たらモラハラ気質のダメ彼氏かもしれない。
でも二人の関係性の中では、彼女は幸せなのだ。
外から見た他人の尺度では、二人の関係は推し量れない。
愛の形は人それぞれだ。
恋愛の形は人それぞれだし、その人にとって何が幸せかは外から見てもわからないし、どういう関係を築いていくのかは恋人同士ですり合わせていくものだから、
— ヒデヨシ (@cook_hideyoshi) 2019年6月13日
赤の他人が「お前の彼氏はモラハラ男だ!逃げろ!」なんて叫んでも、幸せそうなカップルには全く響かないと思う。
ハラスメントを「嫌がらせ」と定義するならば、好きで好きでたまらない彼氏のことを「やばい人」とこき下ろす行為のほうがよっぽど嫌がらせに近いのではないだろうか。
想像してみてほしい。
「自分が大好きな人が、自分の発言がきっかけで、顔も知らない他人から悪口を言われまくる」
そんな状況を。
目をつぶって自分の愛する人を思い浮かべて、その人がツイッターで不特定多数に叩かれていることを想像してみてほしい。
心が痛くならないだろうか。
幸せだった恋人との思い出をスクショに撮られて晒されて、不特定多数の人に「彼はヤバイ!モラハラ」と叩かれたら悲しくならないだろうか。
なんだか思い出に泥を塗られたような、嫌な気分にならないだろうか。
人を嫌な気持ちにさせるのがハラスメントであれば、これは立派なハラスメントだ。
モラル・ハラスメントであり、カレシ・ハラスメントでもある。
とはいえ、ツイッター上での発信に対し、何かツッコミが入るのはツイッターの華ともいえる。
ツイッターにアップした写真が、Facebookにアップした写真のように綺麗なままの思い出でいられる保証はない。
僕もネタツイッタラーの端くれとして、ツイッター上で日々巻き起こる論争を頭から批判することはできないし、自分が同じことを全くしないとは言い切れない。
自分も歴史教養の話をきっかけにして、こんな記事も書いた。
それでも基本的には、何かの議論に対して「自分はこう思う」と考察するに留め、誰かに対して「あなたは間違っています、不幸です」などと断定するのはできる限り避けていきたいと思っている。
何がその人にとって幸せなのかは他人の目からは見えないからだ。
何でもハラスメントになる可能性がある
最近はパワハラ、セクハラ、モラハラと色々なハラスメントが至るところで騒がれている。
日経新聞にもパワハラの話が日常的に載るようになったし、世の中の風潮的に職場のセクハラなどは絶対に許されないだろう。
新人を厳しく叱りつけたらパワハラだと言われ、ツイッターでは彼氏がモラハラと叩かれる。
今の世の中はハラスメントで溢れている。
ハラスメントの閾値が低くなっているのだ。
パワハラやセクハラは当然許されるものではない。
パワハラは人の尊厳を奪い、セクハラは被害者の労働環境を一瞬にして地獄に変える愚行だ。
とはいえ、「私が少しでも不快に感じたものは全部ハラスメント」となると、特に会社組織などでは全ての付き合いが上辺だけのものになりかねない。
今後ハラスメントを許さない空気が強くなるにつれ、上司は部下を腫れ物に触るように扱い、女性社員との会話では一瞬の油断もなく公的な会話のみに徹するようになるかもしれない。
いわゆる「気が緩んだときに出る本音」的なものは表に出なくなってくるだろう。
気が緩んだら何がハラスメントになるかわからないからだ。
まあ、実際の会社組織でツイッターのようにハラスメントが騒がれる世の中になるかといえば、そうではないだろう。
ツイッターはリアル社会に比べ、大げさに騒ぐ人が多い。
スマホの世界のハラスメントの閾値と、リアル社会のハラスメントの閾値にはまだ乖離があるが、
マスコミがツイッターの話題を取り上げ、ネットとリアルをつなげようとする動きが最近は加速しているので、リアル社会も徐々にツイッターに寄っていくと思われる。
他人への配慮がより求められると同時に、他人に心を開きづらくなる方向に世の中は変わっていくのではないだろうか。
規律が求められる会社組織では特にその傾向は強くなると思われる。
皆が平等に自由にネットで発信し、ハラスメントに抗議できるオープンなネット環境が加速する一方で、リアルでは「閉塞感のある時代になった」と言われる日がくるかもしれない。