「小学生の頃のように、脚が早かったり、ドッジボールが上手いことで人を好きになりたい」という女性がいた。
その気持ちはよくわかる。
僕も煩悩を捨てたい。大人は欲が深すぎる。
小学生の頃のように脚が早いことやドッチボールが上手いことで人を好きになりたい。大人は欲が深すぎる。
— 高嶺の華ちゃん (@takano_hana_) September 1, 2019
しかし哀しいかな。
僕たちは大人になってしまった。
好きな子と隣の席になれるように神に祈った小学時代。
隣のクラスの子に恋をして、廊下から眺めるだけで幸せだった中学時代。
彼女と自転車こいで帰宅した高校時代はもう戻ってこない。
社会に出て、僕たちの価値観は変わってしまった。
特に女性の変化は大きいだろう。
君たちはいつから、足が速い男に恋できなくなってしまったのだろうか。
たとえば金曜の夜、ある女性が銀座のコリドー街を歩いていたとする。
彼女はコリドー街で残像を見た。
その残像は──
──男だ。
男の名は韋駄天。
雷よりも激しく、風よりも速く銀座を駆け抜ける男。
そんな韋駄天がコリドーの真ん中をダッシュする姿を見て、
「脚...めっちゃ速い...
...残像しか……見えなかった...
......好き......♡」
となるだろうか?
ならないだろう。
オリンピック選手ならまだしも、会社員でダッシュが速くても全然モテにはつながらない。
いや、もしかしたらコリドー街の“文脈”においては、五大商社マンはウサイン・ボルトよりもモテるかもしれない。
余談だが僕は就職活動のときに一社だけ、総合商社を受けた。
三井物産である。
三次面接。
丸の内の美しいオフィスのフカフカのソファで名前が呼ばれる瞬間を待ちながら、
「商社って......結局何してるんだ?」
といつまでも不安が拭い切れなかったのを今でも忘れない。
面接官はとても感じの良い紳士だった。
自分も将来はこういう紳士になるのだと期待に胸を膨らませた。
丸の内の景色を見下ろしながら仕事をするのだと思った。
面接は「手応えあり」だった。
が、見事に落ちた。
面接で「感じが良い」印象を受けたときは、たいてい落とされるものだ。
企業は未来の客になるかもしれない学生を邪険に扱わない。
しかしあのとき...あのときもっと足の速さをアピールできていれば...
もしかしたら今頃はコリドーで、風のように女を連れ去るウザいんボルトになれていたかもしれない。
余談が過ぎた。
モテの基準は発達段階、というか、年齢に応じて変わってくる。
小学生のときは足が速い男がモテて、
中学生のときはヤンキーがモテて、
高校では部活のヒーローがモテて、
大学ではオシャレなイケメンがモテて、
社会人では年収高い人がモテる───
みたいなことは昔からよく言われている。
進化心理学の本などでは、いわゆるイケメンがモテるのは、
「左右対称の顔」
であることが、病気を持たず、健康な人間であることの証明になったからだと言われている。
本当かよ...。
そんな訳で、本能に刻まれたのかなんだか知らないが、イケメンがモテるのは何歳でも変わらない。
でも「足の速さ」「オシャレさ」「年収」などの「見た目以外のモテの要素」は年齢によって変わってくる。
なぜだろうか?
その疑問に答えを出すべく考えた仮説が
“文脈理論”
である。
モテの文脈とは何か?
大学時代を思い出してほしい。
大学の1〜2年のときは、イケメン、オシャレ、医学部の男がモテたはずだが、皆さんの大学でも同じだっただろうか?
医学部がモテるのは
「医学部がすごい」
という共通の認識があったからだ。
しかしみんなが就活を頑張り始める大学3年の後半あたりから、
「すごい会社に内定をもらった人、めっちゃカッコいい...」
みたいな空気が醸成されてこなかっただろうか。
もしサークルの新歓で、大学に入学したばかりの何も知らない女の子に
「オレ様は外資金融に内定もらってるんだぜぇ、ガハハハ」
などと言って口説いても、ポカンと口を開け失笑されてしまうだろう。
大学1年生にとって「GS」は「ガソリン・スタンド」でしかないのだ。
つまり、みんなが就活を頑張り始めたあたりから、
「就職偏差値が高い会社に入社できる人はすごい」」
というコンセンサスができ始める。
ここからモテの枠組みが変わり始めるのだ。
モテのパラダイムシフトだ。
「宗教」と言ってもいいかもしれない。
みんなが同じものを「すごい」と信じ、それが集団の価値観となる。
同じようなモテのパラダイムシフトは過去に何度も経験しているはずだ。
たとえば田舎の公立中学ではとにかくヤンキーがモテた。
武力が世界を支配していたのだ。北斗の拳の世界だ。ちなみに僕はヤンキーのパシリだった。ヤンキーを絶対に許さない。
その後、中学を卒業し、進学校に通い始めたら、「ヤンキーがモテる」みたいな文脈は消えた。
その代わりに部活のヒーローだったり、カッコいい先輩だったり、学校で目立つグループに所属している人がモテる文脈ができたのだ。
そして高校でモテてきた男たちも、大学で友達作りに失敗した人は急激にモテなくなったりもした。
彼らは文脈の変化に適応できなかったのだ。
「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である」
と言ったのはダーウィンだったが、男のモテに関しても同じことがいえる。
年齢に応じて変わっていく“文脈”に適応し、変化できる者がモテ続けるのだ。
その文脈の中で「すごい人」になれ
この“文脈理論”を思いついたのはDJ社長のLINE LIVEがきっかけだった。
今年の6月頃にDJ社長のLINE LIVEを見て、僕は腰を抜かし、飲んでいた茶を吹いた。
コメントが、止まらない。
滝のように次から次へとコメントが流れていく。
ニコニコ動画の「粉雪」のサビの部分を思い出してもらえたら、実際の流れのイメージが掴めるかもしれない。
コメントの流れが早すぎて見えないのだ。
凄まじい勢いだった。
僕がツイッターアカウントを作って5年。
来る日も来る日も女子垢にリプライを送りつけ、やっとのことで返してもらえた全てのリプライの量を、わずか2秒で越えるほどの勢いだった。
嘘か本当か定かではないが、矢沢永吉はかつて誰かに対して、
「お前がどんだけ良い大学入って
どんだけ良い会社に就職しても
お前が一生かかって稼ぐ額は、矢沢の2秒」
と言ったそうだ。
もしもDJ社長がYAZAWAだったら僕にこう言うだろう。
「お前がどんだけ女子垢に媚売って
どんだけ自撮りをRTしても
お前が一生かかってもらうリプは、社長の2秒」
圧倒的な差であった。
DJ社長は本人が「鼻ニンニク」と自称するほどで、決してイケメンではない。
それでも僕が今までインターネットで見てきた中で一番モテていた。
だがDJ社長は偉大すぎて例として不適切かもしれない。炎上事件についてはここでは触れない。
それではここで、ニコニコ動画の人気配信者である金バエさんを見てみよう。
彼も決してイケメンではないが、めちゃくちゃモテるのだ。
なぜかというと、ニコニコの世界で「すごい人」になっているからだ。
DJ社長はYoutuberの文脈で、金バエはニコニコ配信者の文脈でカリスマとなった。
今もしカリスマティックトッカーなる者がいるとしたら、
その人のモテはジンバブエドルを越えるインフレが起きているはずだ。
その文脈の中でヒエラルキーの上にいけば、男はモテる。
男のモテは文脈で決まる。
ジャニーズが作ったイケメンの文脈
完全な余談だが、いま僕たちが「カッコいい」と思っている「イケメン像」は「そう信じ込まされてきたもの」である可能性も否定できない。
「細身で色が白く、目がパッチリとした二重で、鼻が高い男がカッコいい」
今更語るまでもなく、このような造形をした男を限りなく愛したのがジャニー喜多川である。
テレビや雑誌を通じて「イケメンとはこういうものだ」と刷り込まれた結果、多くの人の中で
「中性的な男がカッコいい」
というコンセンサスができたのではなかろうか。
女性の「可愛い像」ももしかしたら刷り込みがあるのかもしれない。
なんといっても平安時代は下の画像のような女が美女だったのだ。
令和に生きる我々からすると、どう優しく評価しても美女とは言えないだろう。
どちらかというとオタフクだ。
まぁ
「平安時代なら俺もモテていたかもしれない...」
などと考えても意味はなく、現代で自分がタッキーになれるわけでもないのだから、ジャニーが作り出したイケメンの文脈を議論しても何も生まれない。
モテが文脈で決まることを意識しつつ、その文脈の中で自分のポジションを取っていく。
そうすると、もしかしたら金バエのように小さなキングダムを作れるかもしれない。
無論、いつまでもモテだ非モテだ言ってないで、さっさと殺し合いの螺旋から降りた方が幸せだ、という意見は全面的に正しい。