ツイッターを見ていると、若い人達がなにかと「ぴえん😂」と泣いているように見える。
私が「ぴえん😂」に気付いたのは半年ほど前であるが、一度「ぴえん😂」を見てからずっと、「ぴえん😂」の使い方を研究し続けてきた。
観測によると「ぴえん😂」は、
「笑って済ませられる程度の悲しいことが起きたとき」
に使うのが正しい。
たとえば
「わざわざ大学に来たけど休講だった。ぴえん😂」
みたいにピエンするのは正しいが、
「愛犬が亡くなってしまった。ぴえん😂」
と使うのは正しくない。
絵文字はたしかに泣いているが、ピエンは泣いてはいけないのだ。
ピエンはあくまで笑える範囲で使わなければならない。
さて、若者の間で猛威を振るうピエンであるが、何歳までならピエンしても許されるのだろうか?
おっさんがLINEで突然「ぴえん😂」などと泣き始めたら、その場でブロックされてしまうのは想像に難くない。
試しに私が「ぴえん😂」している図を作ってみたが、どうだろう。やはり厳しいものがある。
それに私自身の若い頃の記憶を振り返っても、
「若者ぶりたいおっさん」
ほどウザいものはなく、おっさんになった私が「ぴえん😂」と泣き始めたら、「鏡を見てから出直せ」と言われても仕方がない。
なので、ピエンするならそれが許される境界線を正確に見極めなければならない。
私の観察によると、社会人3年目くらいまでがピエンの限界であるように見える。
2019年11月時点で25歳、平成5年(1993年)生まれまでがピエンできるギリギリのラインだろう。
ピエンは主に大学生に使われているようで、私の世代にはピエンする人は一人もいない。
若者には覚えておいてほしい。おっさんは皆の前ではピエンと泣かない。
背負っている責任が違うからだ。我々は一人、トイレで涙を流すのだ。
若者よ。昭和世代の我々は皆、
「涙の数だけ強くなれるよ」
と言った。アスファルトに咲く花のようにだ。
私は今、令和を生きる君たちに言いたい。
「ぴえん😂の数だけ強くなれるよ」
と。ピエンしながら成長していけばいい。
ピエンの先に、君たちの明るい未来が待ってる。
なぜ歳を取ると若者の感性がわからなくなるのか
いつものように余談である。
バファリンの半分は優しさでできているが、このブログの半分は私の余談でできている。
中学や高校のとき、学校の先生の感性が自分たちと著しく異なっていることに違和感を覚えていた。
若い先生が受け持つクラスは今どきの曲を合唱コンクールで歌っている一方で、じいさんが受け持つクラスでは1980年代の古い曲を歌わされたりした。
授業の話をする分には問題ないが、プライベートの話をすると
「なんかおじさんだな...」
と感じていたのを覚えている。
どうして、この人たちはこんなにも僕たちのことを知らないんだろう?
いや、知ろうとしているのはわかるが、何か決定的にずれている気がする...と思っていたのだ。
大人になってその理由がわかった。
情報の流入源がなくなるから、流行がわからなくなるのだ。
たとえば普通に会社で働いていると、流行りの音楽とかドラマ、オシャレなファッションの話などしない。
プロジェクトの進捗、予算、スケジュール、会議の予定など、業務に関する話が主となり、飲み会の場でも偉い人仕事が語るウンチクだったり、社内ゴシップみたいな話が多い。
若者でTikTokが流行ってるとか、今はLINEではなくインスタで連絡先を交換するとか、そんな話にはまずならない。
これらの情報はツイッターから盗み得たものだ。日経新聞には若者の流行は書かれていない。
つまり、おっさんにはそもそも流行情報が全く入ってこないので、情報が入ってきていた学生時代で感性が止まってしまう。
若いうちは感性のずれは少ないが、時間が経つにつれて「若者とのずれ」が大きくなり、心身共におっさんとなる。
道具は全て、自分で使ってみなければ使いこなせるようにはならない。
ぴえん😂もTikTokもインスタも、プログラミングも数学も全て同じだ。
自分で手を動かして使ってみないと、使えるようにはならない。
「若者は覚えが早い」などとおっさんは言うが、それは脳のスペックの差ではない。
おっさんになると手や足を動かさなくなり、知らない道具を使わなくなってしまうから、新しいことが覚えられなくなるのだ。
いつまでも「若作りせよ」とか、「若い人と同じことをしろ」とまでは言えないが、ある程度、今を生きる若い世代の感性を理解するためには、
- 情報の流入源を確保すること
- 情報を見つけたら、知識として蓄えるだけでなく、実際に使ってみること
を意識するといいのではないか。その努力はもしかしたら、明日のビジネスにも役に立つかもしれない。
このブログを読んだおっさんは、ぜひ明日から「ぴえん😂」を使ってみてほしい。ぴえん😂