女遊びに人生の全てを懸けていた時期があった。
人斬り抜刀斎よろしく、股間に切れ味鋭い剣をさし、その剣で美女を突くことのみを人生の目的としていた。
夜な夜な東京の街に繰り出し、刀を抜いては斬り合う日々。
毎週新たな強敵(とも)と斬り合う日々は眠れないほどエキサイティングで、そして空虚だった。
ある日、何を思ったか、
「これまで夜を共にした女性を思い出してみよう」
と考えた。
これまで一緒に過ごした女性(ひと)の名前を手帳に書き出してみたのである。
花子、陽子、加奈子、舞子...
と名前を書いているうちに、恐ろしいことに気がついた。
人の名前が思い出せないのである。
慌ててLINEを開き、名前を確認しようにも、一度でもLINEが返ってこない相手はすぐに非表示にして削除してしまっていたから、最後まで名前がわからないままなのだ。
あんなに毎晩、毎週具合が悪くなるまで飲んで、給料の7割を注ぎ込んで遊んでいたのに。
俺には何も残っちゃいない。
「俺は一体、何をやっていたのだ...」
何も残さぬまま時を過ごした自分を反省し、そろそろ「女遊び以外の成果」というものを人生に残したくなった。
そんな風に決意したのが数年前だったろうか。
隠居中の仙人のような生活を続けてしばらくして、自分の中の異変に気付いた。
女の子と話すと、緊張するのである。
あれだけ軽快に口から飛び出たはずのトークスキルはすっかり鳴りを潜め、もはや女子を前に二ヘラと笑うことしかできないのだ。
頭では
「女に送るメールを長文にしてはいけない」
とわかっていても、LINEが来たらつい、長文で返信してしまうのである。
そう、これが「非モテ」という病だ。
非モテとは性質ではなく、状態である。
同じ見た目の同じ人間でも、モテたりモテなかったり、様々な状態があるのだ。
そして散々遊んできた自分が仙人のような生活を送って数年。
あの夜の戦いの中で培ってきた「経験値」はすっかり失われてしまった。
英語は話さなければ忘れるように、ボールに触れなければサッカーが下手になるように、対人スキルも触れず話さずでい続けると、衰えてきてしまうのである。
遊びを再開すればあの頃の自分を思い出せるかもしれないが、それにはまだ時間がかかりそうだ。
それにしても、人生はなんて短いんだろう。
いつまでも若い時期が続いて、いつまでも遊び続けていられたらなんと幸せだったろうか。
だが人生は有限だ。
こんな自分だが、自分の快楽のために消費を続ける人生ではなく、何かを残して死にたいと思った。
こういうことを考えるときは決まって、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んだあとなのだが。
坂本龍馬は「世に生を得るは事を成すにあり」という言葉を残した。
学生時代の僕は、この言葉を「世に性を得るはチンをさすにあり」と解釈し、女遊びを成すことばかりを考えていた。
社会人になってからも一時期は「我が人生は精を出すにあり」と言わんばかりに遊んだ。
結果、記憶にすら残らなかった。
相手にも、自分にも。
これを「後悔した」というにはあまりにも楽しすぎる日々だったけど、30歳を過ぎると、ちょっと俺の人生どうなんだろうって考えてしまうよね。
人生は短い。
できることは限られている。
目の前には無数の選択肢があって、何を選び、何を捨てるかの決断の連続だ。
人生は時間のポートフォリオである。
限られた時間を何に振り分けるかが、自分の人生のパフォーマンスを決めるのだ。
長々と書いたこの記事の中で、僕が伝えたかったことは一つである。
「Apple Pencil、マジ最高」