司馬遼太郎『城塞』のストーリーと、そこから得られる教訓



司馬遼太郎先生の『城塞』は関ヶ原の戦いから14年後の話。
大坂の陣で徳川家が豊臣家を滅ぼす過程を描いた作品である。

滅びに向かっていく物語の性質からか、『城塞』は全編通じて暗い雰囲気が漂っている。

徳川家康が「陰湿」という言葉では言い表せないほどの詐謀の限りを尽くして豊臣家を滅ぼしにかかる中、死に花を咲かせるかのように武勇を示す真田幸村の姿が印象的であった。

そして真田幸村や後藤又兵衛のような優秀な武将がどんなに献策しても採用しようとしない豊臣首脳陣の愚かさにも怒りを覚えた。

もし今、

「自分自身は優秀だと思っているのに会社では報われていない」

などと不満を持っている人がいたとして、その人が『城塞』を読んだなら、無能な首脳陣に振り回され、どんなに献策しても全く報われない様子にシンパシーを抱いてしまうかもしれない。


『城塞』には、同じ司馬遼太郎作品の『竜馬がゆく』にあるような明るい雰囲気はない。

徳川家康は豊臣家を滅ぼすために詐術を積み重ね、豊臣側はいたいけな少女のように何度も何度も騙された。

目の前に「やる・やらない」の決断の選択肢があったとして、そのことごとくで間違った方を選んできたのが豊臣家であった。

そして間違った方を選ばせるように仕向けたのが家康だった。


豊臣家が騙される姿は、何度浮気されてもダメ彼氏を信じてしまうメンヘラ女そのものだった。

恋のシーソーゲームと同じで、力関係が弱い方はどうしても相手に精神的にすがってしまい、騙されてしまうものなのかもしれない。

とはいえ、当然ながら政略は恋愛ではない。

メンヘラ女のように相手を信じていても報われない。

負けたら終わりどころか、最後は死んでしまう。


豊臣家の実質的な支配者であるメンヘラ&ヒステリ女の淀殿は、現実がまるで見えていなかった。

常に彼女の脳内の観念で物事を捉え、願望と現実を区別して考えることができなかったように感じる。


『城塞』では彼女の観念主義かつ不合理な判断の数々が辛辣に批判されているし、実際に豊臣家は自ら滅びに向かって歩んでいっているかの如く、愚かな判断を繰り返した。

司馬は作中の登場人物である真田幸村に淀殿をこう評価させている。

淀殿とはなんであろう。

「一個の感情である」と、幸村はそれ以外に、淀殿は存在しない、とおもっている。
秀頼と自分だけの豊臣家というものについて異常に肥大化した誇りと、その豊臣家を喪うかもしれないという異常な恐怖心という、この二つの肥大感情以外にどういう心ももっていない。

つまりは化けものではあるまいかとさえ、幸村はおもっている。


また淀殿と共に実権を握った大野治長をこうも評している。

奸物というのは、人柄の善悪ではなく、無能にして権力をにぎって将士を生死させる存在をそう定義するらしい。


さて、『城塞』の舞台となる大坂の陣である。

はじめに断っておかねばならないが、歴史の玄人を唸らせるだけの分析を語るには文献の読み込みが足りず、専門家からすると拙い感想を描いてしまうかもしれない。

それでも自分なりに『城塞』を読んで思うところはあったので、これからの人生に活かせそうな教訓をまとめてみる。

ざっくりとストーリーも書いたので、歴史のお勉強のつもりで読んでもらってもいい。

また作品の性質上、人によっては男尊女卑とも受け取られかねない記述が出てくる。

滅びゆく大坂城が「女の城」であった点は大坂の陣を語る上で避けられないことであり、豊臣家が滅びていった直接の原因でもあるので、そのような描写が入るのは避けられない(まさかフェミニストがこの記事を読むことはないとは思うが、念のため)

『城塞』のストーリー

f:id:hideyoshi1537:20190924181150p:plain

1603年、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。
徳川政権の樹立である。

しかしその後も豊臣家と徳川家のあいまいな関係は続く。
実権は家康にあるものの、豊臣家が臣従しているわけでもない。

「人生50年」といわれた戦国時代において、家康の気がかりは自分の寿命であった。

征夷大将軍に就任した2年後には息子の秀忠に将軍職を譲り、「征夷大将軍は徳川家の世襲」であることをアピールしたものの、自分が死んだらまた新たな政変が起こってしまうことは容易に想像できた。

特に1611年。

69歳の家康が二条城に秀頼を招いたときに、彼の荘厳な姿を見た時の衝撃は大きかった。


秀頼から人を圧倒するような、高貴なオーラを感じたのだ。


f:id:hideyoshi1537:20190923231602p:plain
ただならぬオーラを放つ秀頼


「こいつは徳川家の驚異になる...俺が生きているうちに殺しておかなければならん...」


と家康は決意する。

どんなイチャモンをつけてでも、ブチ殺す。

f:id:hideyoshi1537:20190923171121p:plain
秀頼を殺すことを決意した家康


家康は考えた。

何か戦争の火種はないか...、いや、ねえな...。

ということで、火種は自分で作り出すことにした。

奈良の方広寺をきっかけにした。

「豊臣さん、地震で壊れちゃった方広寺を直しましょうよ。方広寺ってほら、『豊公』とも読めるでしょ。字面もええやん!盛大に直しましょう!」

と提案し、豊臣氏が溜め込んだ財力を使わせることに成功する。

そしてその後、方広寺の梵鐘の銘文に対してイチャモンをつけた。


「鐘のさ、『国』『君臣豊楽』の句、これ徳川家康の『家』と『康』を分断し、『豊』『臣』を君主とする...とも読めない?

これ、徳川家を冒涜するものっすよね?

お前、ワシのこと馬鹿にしてんの?お?」


と。

f:id:hideyoshi1537:20190923230309p:plain
イチャモンをつける家康のイメージ


「この鐘、ワシを馬鹿にしてるよな?」


f:id:hideyoshi1537:20190923171610p:plain


イチャモンをつけるにあたって、家康は寺の偉い人を懐柔したりありとあらゆるセコい根回しをやりまくっていたのだけれど、それは『城塞』を読めばよくわかる。

この方広寺鐘銘事件を火種にして、1614年10月1日。

家康は豊臣征伐を発令した。

イチャモンもいいところだ。
目が合っただけで戦闘を仕掛けるヤンキーよりもたちが悪い。

この時期の家康は歌舞伎町のヤクザよりヤバいジジイと化している。

大坂の陣・勃発

家康が攻めてくるということで、豊臣氏も各地の大名や浪人に檄を飛ばすが、現役の大名で豊臣に味方する者は誰一人としていなかった。

この時期、故・秀吉が昔から面倒を見ていた大名は福島正則くらいになっており、大坂の陣が勃発したとき、福島正則は

「三年遅く、三年早し」

と嘆いたという。

あと三年早ければ加藤清正や浅野幸長がいたのに...

あと三年遅ければ家康のジジイも死んでただろうに...

という意味だ。


逆に考えると、家康からするとこれ以外にないタイミングで豊臣潰しに走ったといえる。

なにせ当の家康だって寿命が近い。

実際に大坂の陣の2年後、1616年に死んでいるのだから。


歴史に「たられば」はないが、当時の戦は総大将が死ねば全軍撤退が原則だったそうなので、家康が死ぬまで大坂城で籠城できていたら、時代は変わっていたかもしれない。

同じ場所にあった石山本願寺を攻めるのに織田信長が10年かかったのだから、織田信長のときと事情が違うとはいえ、家康が死ぬまでは耐えられた可能性もある。


さて、大坂の陣勃発時、豊臣秀頼は22歳。現代の感覚でいうと30歳くらいであろうか。

立派な大人である。

この記事で何度も触れている「淀殿」というのは秀頼の母親なのだが、秀頼は淀殿によって貴族として育てられた。

大坂城の外の景色を見たこともなかった。

世間知らずの坊っちゃんの初陣の相手が百戦錬磨の徳川家康である。
さすがにちょっと可哀想にも思えてくる。

実際には豊臣秀頼は総大将と言うよりは飾りのような感じで、淀殿(秀頼の母)と大野治長が指揮権を握っていたようだ。

大野治長という男も不思議な奴で、こいつは単に淀殿の乳母の息子に過ぎない。

司馬遼太郎は「大野治長程度の男が裸一貫でこの世に出てくれば、足軽十人の小頭もむずかしい」と評していたし、実際にその程度の男であったようにも見える。

サッカーにたとえるならば、ウイニングイレブンしかやったことのないおっさんが日本代表を率いてレアル・マドリードと闘うようなものだろうか。

大坂側には後藤又兵衛や真田幸村といった後世の英雄もいたのだが、彼らの作戦は豊臣側の首脳陣には受け入れられなかった。

淀殿は阿呆だし、大野治長はどうも豊臣家での自分の政治的立ち位置ばかりを気にしていたようである。

今でいうと、市場や顧客を見るより社内の政治ばかり気にする無能な中間管理職のおっさんみたいなものだろう。

ああいう感じの愚物が5万人の命を握って指揮を取っていたのだ。


大坂冬の陣

さて、大坂冬の陣である。

大坂城は当時の先端技術を結集した難攻不落の城だ。海抜ゼロメートルの低湿地帯の河内平野(大阪平野)のなかで唯一の高台である上町台地に築かれた。

北には淀川・天満川が、東には大和川・平野川が流れ、西には難波湾(大阪湾)が迫る。

周りは低湿地帯で攻めにくい。

攻め口は上町台地が続く南方天王寺方面からしかない。

南方さえ防御すれば、何年でも籠城できる作りとなっているのだ。

そして弱点となる南方には「真田丸」という要塞が築かれた。

f:id:hideyoshi1537:20190923231244p:plain
有名な真田丸

この真田丸に幸村は兵力6000を率いて駐屯したという。

f:id:hideyoshi1537:20190923202320p:plain

大坂冬の陣において、真田幸村の勝利は圧倒的だった。

徳川方をことごとく罠にはめて、徳川側はたった一日で10,000人以上の戦死者が出たという。


「こりゃあなかなか落とせんな...」

と考えた家康は、和睦の道を謀る。

しかし、家康が和睦しようとしても秀頼が覚醒したかのように和議を受け入れない。

「和議はいっさいまかりならぬ」

「いま予が、関東討伐の兵を挙げたということは、かならずしも政権を回復しようというためのみではない。

むしろ自分の志は故太閤殿下の名誉をまもり、この城をもって墳墓にしようとするところにある」

と秀頼がいった。

大坂城に集まった浪人たちに影響を受けて、秀頼の大将としての素質が開花しつつあったのだ。

f:id:hideyoshi1537:20190923225853p:plain
覚醒した秀頼


秀頼の凛とした抵抗で家康が狙ったとおりに和議は進まない。

そこで家康が狙ったのはメンヘラ馬鹿の淀殿の気持ちを滅入らせることであった。

淀殿がいるあたりに大砲をぶっ放して、淀殿を発狂させた。

大砲にビビった淀殿は頭がおかしくなり、

「和議じゃ和議じゃ」

と騒ぎ立て、あれよあれよと徳川優位の和議を受け入れてしまった。


淀殿に対して「馬鹿」とキツい表現を用いてしまったが、もう本当にこいつに関しては馬鹿としか言いようがない。

そもそも淀殿は秀吉の妾に過ぎず、おおよそ人の上に立つような人物ではなかったのだ。

司馬遼太郎は作中の登場人物に

淀殿に支配されて屋台の根田も柱も腐りはてている豊臣家にはもはや救いようがない。

と述べさせている。

家康も卑怯だったが、まんまと罠にハメられて、堀という堀を全部埋められてしまった。

天下の堅城だった大坂城が裸の城にされてしまったのだ。

家康の詐術があったとはいえ、豊臣側は自ら落とし穴に落ち、自ら城を裸にしたようなものであった。

こんなふざけた方法で落とされた城は古来一つもないという。

大坂夏の陣

しばらくして、「おい大坂の野郎ども、お前たち何かガヤガヤと集まってるけど、もしかしてまた戦争する気なんじゃないの?」と家康がイチャモンをつけて二度目の出陣が決まった。

家康は3日で決着をつけるつもりでいて、兵糧も3日分しか持たせなかったという。

実際、3日で終わった。

堀を埋められ、真田丸も壊された大坂城では籠城戦などできない。

そこで野外決戦に出たのだが、有力な武将が善戦しながらも死んでいく。


万策尽き果てた幸村は最後の手段として「秀頼出陣」を願う。

秀頼が太閤以来の金瓢の馬標を押し立てて陣頭にさえ出てくれば、味方の士気が倍加するばかりか、敵の豊臣恩顧の諸大名は大いに動揺するにちがいない。

───十万の兵に相当する。

と幸村は秀頼ひとりを、それほどまでに換算するようになっていた。

もはや施すべき万策が尽きてしまっている幸村にとって、唯一の期待は秀頼の出馬によっておこる敵味方への衝撃以外にない。


このシーンはキングダムで蕞(さい)を守るために出陣した秦王・政を思い出すとわかりやすいだろう。

f:id:hideyoshi1537:20190923205207p:plain
王の出陣で士気が爆上がり

oreno-yuigon.hatenablog.com

秀頼が出陣することで味方の士気が限界まで上がりまくり、また秀吉にお世話になった敵の武将も戦意を失う可能性もある。

その隙に家康の首を取ってしまえばいいと幸村は考えていたのだろう。

起死回生の策である。

そんな幸村の作戦はどうなったか?

「秀頼が出陣!?危ない!危ないィィ!」

なんと、バカ親である淀殿が我が息子かわいさに秀頼の出陣を許さなかった。

家康が偽の和議の使者を出し、淀殿を間接的にコントロールしたという説もある。

家康にとっても秀頼出陣は脅威だったのだ。

秀頼もバカ親に見切りをつけてさっさと前線に立てばよかったものを、彼は終生自分で物を考えるようなことがなかったために、このときも自分で判断できなかった。


幸村は万策尽き、決死の覚悟で家康の本陣に突撃した。
その突撃は凄まじく、家康も2度切腹を覚悟するほど追い込まれた。

しかし多勢に無勢すぎた。
やがて幸村も力尽きてしまう。


「右大臣家(秀頼のこと)はまだか、まだか」

と秀頼の出馬を請い続けたまま、幸村は安居天神の境内で死んだ。

後に「日の本一の兵」と称される英雄の死だった。


1615年5月8日。

大坂城は落ち、情けなくも最後は蔵に逃げ込んだ秀頼、淀殿、大野治長、毛利勝永らが切腹して果てた。

豊臣家の最期だった。

豊臣秀頼

司馬遼太郎は秀頼を単なるマザコンの無能のようには描いておらず、どちらかというとその境遇に同情的な評価をしている。

司馬はある登場人物に秀頼についてこう語らせている。

秀頼が女どもなどに育てられずに、堂々たる士大夫に育てられ、公家のまねなどはせず、真夏には野山を駆け、沼にとびこみ、真冬には城外十里の叢林を走って狩りをし、士を愛し、民の苦難を怖れるような人間に育ち上がっておれば、老いぼれた家康と雌雄を決することなど、いと易かったことなのだ。

以下、『城塞』から得られる教訓。

過保護な母親から心身ともに独立しなければ男の道は開けない

母親というものは、子どもがどこまでも心配になるものらしい。
子どもの幸せを願い、子どもにはできるだけ危険なことはしてほしくない。

しかし男というものは、危険を乗り越え成長していくものである。

自分で考え、自分で判断し、自分で行動し、失敗しながら学んでいく。

過保護な母親が自分の目に入る範囲から子どもを出すことなく育ててしまうと、結局子どもは大成することなく没してしまう。

子は子で、いつまでも母親の顔色を伺うのではなく、何をするかは自分で判断し、自分の道は自分で決めなければならない。

秀頼も最後の最後で母親の制止を振り切り自分の意志で出馬していたなら、後世の評価は全く別のものになっていただろう。

母親の助言は常に保守的になりがちだ。
子どもを心配するのは当然のことで、自然な感情だ。

子どもを危険に晒したくはないし、「自分が知らない外の世界」は全て危険に見えてしまうものなのだ。

しかしだからこそ、男子たるもの、母親の「心配」を「呪縛」にすることなく、力強く自分の道を歩まねばならない。

oreno-yuigon.hatenablog.com


※かなり一般化して書いているが、当然ながら全ての母親が保守的なわけではない。念のため。

上に立つものが愚かなら、下はどんなに優秀でも報われない

真田信繁(幸村)は最初から大坂側が勝つとは思ってなかったのかもしれない。

九度山に閉じ込められ、未来のないまま朽ち果てていくよりも、大坂で派手に死に花を咲かせることを目的にしていたのだろうか。

それにしても、真田幸村や後藤又兵衛のような大坂側の武将は不幸であった。

どんなに勇敢な戦略を献策しても、豊臣首脳陣は自分たちが生き残るための保守的な作戦しか取り入れようとしない

司馬遼太郎に「女の城」と言われたように、作戦がいちいち女子供の思考から発せられるのだ。
その根本にあるものは「恐怖」と「現状維持への願望」である。冒険ではない。


大野治長(作中では大野修理と呼ばれる)も大将の器でもないのに淀殿の傀儡のような立場に立って、結局は空回りばかりしている。

「日の本一の兵」と評価されるほどの優秀な武将でも、結局上が阿呆だと報われない。

自分の上に立つ者の資質を見極めなければならない。


※「女子供」と書いているが、女・子供全てを蔑んでいるわけではない。念のため。

人のインセンティブを理解する

「その人はどんなインセンティブでその行動を取っているのか」をよく考えなければならない。
言葉だけを見ていると、相手の意図は見抜けない。

その人の行動と、その背後にあるインセンティブを見つめるべきだ。


豊臣側は徳川家康の詐欺的な交渉にことごとく騙されてきた。

家康が「豊臣家は自分の寿命が尽きる前に滅ぼす」というインセンティブから行動を起こしているのを見抜けなかったからだ。

少し優しい言葉をかけられると、すぐに頭から信じてしまっていた。

「なぜこのような行動を取ったのか」
「何が目的なのか」

をよく考える癖をつけよう。

インセンティブを考えると、その人間が見えやすくなる。

現実を正しく見る

自分の願望と現実は区別して考えなければならない。

世界は自分が「こうあってほしい」と思うようにはできていない。


「今、現実はどうなっていて、そのためにどんな行動を起こすべきなのか」

を冷静に考え、合理的に判断しなければならない。

淀殿は「こうあってほしい」とか「こうあるべきだ」という己の願望で世界を認識し、どうも現実が見えていなかったように思える。

願望や夢は大切だ。

その願望や夢と、現実のギャップを正しく認識し、ギャップを埋めるために何が必要なのかをできるだけ客観的に考察する習慣をつけなければならない。



城塞(上) (新潮文庫)

城塞(上) (新潮文庫)

ここまで9000文字を費やしてこの記事を書いてきた。
おそらく最後まで読み切った人は訪問者の1%もいないと思う。

でもこの記事をここまで読めた人はぜひ、『城塞』を買って読んでみてほしい。
記事の100倍エキサイティングで、1000倍面白いから。

僕はiPodにKindleをインストールして読んでいた。
すき間の時間を活用すれば1〜2週間くらいで読めると思う。