電車の中でこの記事を書いている。
隣に座っている50代と思われる男性は足を「八の字」にして、腕を組んで座っている。
端的に言うと、邪魔である。
電車の座り方は各人の自由だろうが、横に人が座っている状況で「八の字」にするのはどうも周囲への配慮が足りないような気がしてならない。
かといって「足を揃えて座れェ!」と声を荒立てて叱責するようなことでもなく、不満をぶつけるかのように記事を書いている。
いま私が乗っている車両には、目視できる限りで7人掛けのベンチが6つ。優先席が2つある。
男性・女性の比率は日中ということもあり、やや女性が多いだろうか。
座っている人を眺めてみると、全てのおっさんが足を「八の字」にしているわけではないが、足を組んだり開いているのは全ておっさんであった。
もしこの車両に入れ墨を入れた若いチンピラヤンキーみたいのがいたら私の見解は異なる結果になっていたかもしれないが、とりあえずおっさんが足を開いている割合が多そうである。
なぜおっさんは足を開いて座るのだろうか。
- 身体的な問題
- 精神的な問題
- 権力の誇示
- 鈍感力
の観点から考えてみたい。
続きは帰宅後、自宅で書く。
身体的な理由で足を開く
色々と考えてみたが、最大の理由はこれではないだろうか。
イチモツがでかすぎて、足を閉じられない。
身体に障害のある方が優先席に座るように、おじさんもまた、足を閉じられない身体的な事情があるのかもしれない。
足を閉じるとモツが挟まってしまう。
モツが挟まり続けるのはしんどい、辛い、苦しい...
それで仕方なく、足を「ハの字」にしてモツを解放しているのだ。
そう考えると、おっさんはむしろ可哀想にも思えてくる。
イチモツがでかすぎるせいで足も閉じられず、歩くときはいつも邪魔になってしまう。
身体的なハンデを抱えていると言ってもいい。
身体的な問題から足を開いている場合、おじさんに罪はない。
思いやりの心、譲り合いの精神が大切だ。
精神的な問題
私もずいぶんとおじさん化が進んだのでよくわかるのだが、歳を取ると人に何かを指摘されることが少なくなる。
小さい頃は何か間違ったことをすると大人が叱ってくれたものだが、大人になると誰も叱ってはくれない。
「あ、この人はヤバい人なんだな」と白い目で見られて終わりとなる。
30歳を過ぎたくらいから怒られることがだんだん減ってきて、40歳を過ぎて「いいポジション」に落ち着いたおじさんは、怒られること自体が珍しくなってくるだろう。
「おじさんが甘やかされている」などというと「ナメるなよ小僧」と怒られるかもしれないが、ある程度社会人生活が長くなって、社内での立場が上がり、飲み会では新人がお酒をついでくれて、雑用もせず、何か話せば人が笑ってくれるような状況に慣れてきてしまうと、さすがに対人関係の緊張感もなくなってきてしまうだろう。
そういう“精神的な甘え”が、他人しかいない電車の中で出てきてしまっているのではないか。
許される立場に慣れてしまうと、他人への緊張感がなくなってくる。
「緊張感のない状態」が癖になって、ついうっかり電車でもハの字で座ってしまうのだ。
権力の誇示
これはおじさんというか、ヤンキーに当てはまることが多い。
私はヤンキーにシメられ続けてきたので、ヤンキーがいかに権力を大切にしているかはよくわかる。
彼らは不必要に足を開き、背を傾け、できる限り偉そうに座ろうとする。
絶対に体勢的には辛いはずなのに、できる限り背筋を伸ばさず、背面と身体の接触を減らし、だらしなそうな姿勢を維持するのだ。
電車で足を開いて座るおじさんも、実はヤンキーに憧れて権力を誇示したかったのかもしれない。
そのおじさんは足を開きながら、心の中で
「オラァ...」
と呟いている。
彼は電車の中で王様になっているのだ。
鈍感力と敏感力
人間、生きていく上で鈍感力は大切だ。
鈍感力と嫌われる勇気があれば、人間関係で精神を摩耗することなく世の中をサバイブできる。
しかし鈍感力は時に人を不快にすることもある。
「他人にどう思われても気にしない生き方」
はカッコいいし、憧れる。我が道を行く強さがほしい。
その一方で、自分の意志を貫く強さを持ちながらも、他人の感情への配慮を欠かさない
「敏感力」
もあれば、不用意に敵を作ることなく、他人に恨まれることもなく、人生を幸せに生きることができる可能性も上がるように思えるのだ。