先週、「腹を割って話すだけでは『恋人との適切な距離感』は掴めない」という記事を書いた。
記事の内容を簡単に説明する。
彼女に大失恋をした男が、自分の振る舞いを振り返った。
尽くしても尽くしても、その想いは届かなかった。
結局、フルコミットし過ぎたことが原因だったと思い至り、次の恋愛までに執着を分散させることを決意する。
そんな彼に対し、ネットでは批判が飛び交った。
中でも目立ったのが「適切な距離感を掴むことから逃げている。腹を割って恋人と話すべきだ」という意見だ。
それに対して、
・自分の「適切な距離感」や「感情の原因」を言葉にできる人は少なく、結局腹を割って話すだけでは本心は掴むことができない
と主張したのが、以下の記事だ。
上の記事に、こんなはてブのコメントがついた
id:y0m0
好きな理由を言語化してしまうと、その条件をみたす上位互換がでてきたらそちらを愛するということになるので、好きな理由なんて言語化できなくてよい
y0m0さんのコメントを読んだとき、ずっと忘れていた記憶がすぅっと蘇ってきた。
昔読んだ本の記憶だ。
村上龍が書いた「無趣味のすすめ」という本にあるエッセイだった。
「好き」という言葉は自家撞着・満足の罠に陥りやすい。
程度の差はあっても、好きという感情には必ず脳の深部が関係している。理性一般を司る前頭前皮質ではなく、深部大脳辺緑系や基底核が関わっている。
「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。
だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。
なぜ好きなの?
どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。
「好き」が脳の深部から湧いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に、他人にわかりやすく説明できるような「好き」は案外どうでもいい場合が多い。
「無趣味のすすめ」 p.14 「好き」という言葉の罠
JUJU - 言葉にできない - YouTube
※ここからは音声と共にお楽しみください
就職活動のときによく聞かれる質問が嫌だった。
「なぜこのスポーツをずっとやってきたんですか?」
「なぜ、それが好きだったんですか?」
というような質問だ。
ありきたりな答えをあらかじめ用意して論理的に答えていたが、頭の中では納得していなかった。
「好きだからやってきた」
以外に理由はなかったからだ。
楽しいと思ったからやった。
練習して試合に出ると活躍できて目立てるし、みんなで勝ちに行くのが楽しかった。
「なぜそれが楽しいのか?」を深く考えることが自己分析です、なんて就活コンサルタントは言う。
うるせぇよ。
お前は昨日デートした女の子といるときになんでドキドキしたか論理的に答えることができるのかよ。
そして、その論理的に考えた答えは、お前の本心をピッタリ表現できているのかよ、と心の中で思っていた。
恋しているときも同じ。
「好き」って気持ちを論理的に答えられるうちはまだまだ。
「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存しているからだ。
エッセイはこんな一文で締められる。
この文章が、俺の記憶の奥のほうにずっと残っていた。
「なぜあの人が好きなの?」
「お金持ちだから」
というようなやりとりを想像すればわかりやすいが、説明可能なわかりやすい「好き」は、何かを生み出す力にはなり得ないのだと思う。
何かを生み出す「好き」は、理性のもっと奥から原始的に沸き上がる感情で、「何がなんだかわからないけど、好きで好きで仕方がない」という感情は、恋に限らず、大きな仕事を成し得る原動力になるだろう。
- 作者: 村上龍
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