村上龍さんの『無趣味のすすめ』という本で、
- 「好き」という言葉の罠
というエッセイがある。
このエッセイを大学の頃に読んで以来、様々な場面で助けられてきた。
内容を紹介したい。
**
「好き」という言葉は曖昧だ。
意味が曖昧なわけではない。言葉に込められる感情の強さの度合いがはっきりしないのだ。
ないよりはあったほうがいいという程度の「好き」もあるし、それを奪われたり失ったりしたら死んでしまうかも知れないという強烈な感情や意志を伴う「好き」もある。
<中略>
「好き」という概念を否定しているわけではない。
だが好きという言葉は自家撞着・満足の罠に陥りやすい。
程度の差はあっても、好きという感情には必ず脳の深部が関係している。
理性一般を司る前頭前皮質ではなく、深部大脳辺緑系や基底核が関わっている。
「好き」は理性ではなくエモーショナルな部分に依存する。
だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。
なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。
「好き」が脳の深部から湧いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に、他人にわかりやすく説明できるような「好き」は案外どうでもいい場合が多い。
「なぜあの人が好きなの?」
「お金持ちだから」
というやりとりを想像すればわかりやすいが、説明可能なわかりやすい「好き」は、何かを生み出すような力にはなり得ないのだと思う。
**
- 作者: 村上龍
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2011/04/12
- メディア: 文庫
- クリック: 20回
- この商品を含むブログ (18件) を見る
私のどこが好きなの?に対する答え
さて、今では関ヶ原の戦いに破れた落ち武者のような生活をしている私だが、こんな私でも複数人の女の子を股にかけて遊んでいた時期があった。
そのときに困っていたことはたくさんある。
複数の女の子を同時並行で走らせるというプロジェクトには、歯ブラシや落とし物の管理、スケジュールの調整など、極めて高度なマネジメント能力が求められるものだが、最も困ったのは
「私のどこが好きなの?」
という質問であった。
どこが好きなのかを説明するためには、相手のことをよく理解し、よく考え、その上で自分の感情と向き合わなければならない。
同時に複数人と遊ぶような輩に、そんなことをじっくり考える時間はないし、そもそも自分自身が「好きって何?」「愛って何のこと?」みたいな、何のために遊んでいるのか意味不明な状況に陥っていたのだから、答えなんて出せるはずもない。
結局正解がわからず、
「私のどこが好きなの?」
「.......」
「答えられない?」
(顔が可愛いとかスタイルが好きとか言ったら怒られそうだな...)
「せ、性格...かな?」
みたいな答え方をして、気まずい空気になった。
そんな際どい質問によって幾度となく窮地に立たされた僕を救ったのが、冒頭のエッセイなのであった。
「私のどこが好きなの?」
「それは難しい質問だな」
「どういうこと?」
「たとえば好きな人のことを説明するときに『お金持ちだから好き』だとか、『カッコいいから好き』って言うと、少し薄っぺらく聞こえないか?」
「たしかに」
「好きって感情は理性じゃなくて、もっとエモーショナルな部分から生まれてきているから、
僕たちは本当に好きなものについては言葉で説明できないんだよ」
「うん」
「つまり、言葉では説明できないくらい好きだってことだよ」
そこでDUO3.0という英単語帳で学んだ熟語を被せる。
「愛はbeyond descriptionなんだ」
「......」
「......」
...
......
.........結局は。
結局は、恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲームなのである。
恋のシーソーゲームでは、主導権を握ったほうの勝ちだ。
意味不明な理屈で、説得力のない何かを言われたとしても、男側に主導権があれば不問となる。
逆に、女性側が完全にシーソーゲームを支配しているパターンで
「本当に好きな気持ちは説明できないものなのさ」
などと言っても、
「0点。センター試験の現代文からやり直し」
と怒られるところだろう。
それなら迷わず
「顔!100点満点!顔しかいいとこない!」
くらいに言ったほうがいい。
ちなみに人事面接などでこの答え方をしたらアホ認定されるので、気をつけたほうがいい。
面接ではエモーショナルな部分をいかに言語化して、論理的に他人にわかりやすく説明できるかを見られているからだ。