俺の遺言を聴いてほしい

これは俺の遺言だ。

一人の人間のソーシャルメディアの言動の責任を会社に取らせようとする風潮への違和感



しばらくツイッターを見ていない間にまた田端信太郎さんが炎上していた。

田端さんが炎上するのはいつものことなのでそれほど気にはならないが、軽くタイムラインを追ってみると、

どうやら「高度プロフェッショナル制度」について炎上しているらしい。


「高度プロフェッショナル制度」とは何か?


巷では「残業代ゼロ法案」とも「脱時間給制度」と呼ばれ、

年収1,075万円以上の労働者を労基法による規制の対象から外す制度らしい。


厚生労働省の定義で見てみよう。

官僚は難解な文章を書くことにかけては比類なきプロフェッショナルなので、読んでも何が言いたいのか全くわからない。


なので、ポイントだけ箇条書きする。

  • 時間ではなく、成果で評価されたい労働者のニーズに応えるための制度
  • 時間外・休日・深夜の割増賃金の支払い義務の適用を除外する
  • 労働基準法第14条を参考にして、年収1,075万円以上の労働者への適用を検討する


つまり、年収1,075万円以上の労働者に対しては、

「時間に対して賃金を支払う考え方」

を改めて、成果に対して賃金を支払うような制度を作りたいようだ。


基準となる年収1,075万はあくまで


「参考にする」


そうなので、1,075万で確定するとは限らない。

今後の労働時間法制等の在り方について(報告書骨子案)



この制度に対して田端信太郎さんが




と述べたことが火種となって、議論が紛糾した。


高度プロフェッショナル制度や過労死の問題について、僕は詳しく調べているわけではないので言及を避けたい。


ただ、高度プロフェッショナル制度の議論とは別に、田端信太郎さんと論戦している人が


「ZOZOTOWNはこういう会社なんですね」


と言って、田端さんではなく会社を非難している点には違和感を覚えた。





この言い方に対しては、


さすがに所属している会社、関係なくね?


と思ってしまうのである。



たとえば、自分が大学生だった頃を思い出してほしい。


周りには色んな奴がいたと思う。


頭の良い奴もいれば、アホもいただろうし、

サッカーが上手い奴もいれば、バスケが上手い奴もいた。


何か事件を起こした奴がいたとして、○○大学の学生は犯罪者だ!と避難するのは一般化しすぎだろう。


たとえば、早稲田大学には


スーパーフリー


と呼ばれる伝説の猥褻サークルがあった。


彼らは飲みの場で事件を起こしたわけだが、だからといって


「早稲田大学の学生は悪」


とは言えないはずだ。


いい奴もいれば、悪い奴もいる。


同じように、ZOZOTOWNには色んな社員がいて、それぞれの社員が協力しながら日々サービスを改善しているはずだ。


田端信太郎さんを批判したいときは、田端信太郎さん本人を批判するべきで、

ZOZOTOWNというサービス自体を否定するのはおかしいと思ってしまうのだ。


もちろん、感情的に


「田端信太郎さんが嫌いだからZOZOTOWNも嫌い」


と思ってしまうのはわかる。


僕自身、合コンで僕をコテンパンにしやがったJT社員が嫌いで、JTという会社に良い印象は持っていない。


だからといってJTの社員全部が嫌な奴だとは思わないし、そんなはずがない。



それに加えて、違和感を覚えた部分が他にもある。


田端さんを批判しようとしている人たちから、


「ZOZOTOWNという所属会社を批判することで、田端さんの言動を封じよう」


という意図を感じた点だ。


「ZOZOTOWNはそういう会社なんですね」


とチクリと刺すことで、田端さんを黙らせようとしているように見えてしまった。


ツイッターで議論をするのは全く問題ではないし、議論好きな人は大いに論争するのがいい。


でも、自分の意見を通して相手を黙らせるために、会社名を出して脅すのは筋が悪いのではなかろうか。


議論するなら、会社名を批判するのではなく、論理で批判するべきだ。



そもそも


「サラリーマンを黙らせるには所属会社を批判すればいい」


という風潮こそが、労働者を不幸にしていると僕は思う。


会社と労働者が強く結びつき過ぎていて、労働者の独立自尊の精神を損なう原因となっているように見えるからだ。



「個人の発言に対して会社に責任を取らせよう」とする文化の中では、

労働者は会社という「イエ」に所属している子供のようなものだ。


何か問題がある社員を「会社に告げ口する」のは、「問題がある子供は親に言って黙らせる」のと同じだ。


全然会社から独立してない。


会社と労働者が密に結合しすぎていて、家族のようになってしまっている。


家族は安心感を与えてくれるし、それ自体が一概に悪いとは言えないのだが、労働者がプロフェッショナルとして自立するのを阻害している。

また、会社と労働者が親子の関係を維持し続けていたら、いつまでも対等な関係は築けない。




「労働者は何らかの専門性を提供し、その専門性に対して会社が対価を支払う」


というのが会社と労働者の対等な関係であり、プロフェッショナルのあり方である。



そして、専門性を持つ社員にとって、会社は自分の専門性を売るハコのようなものなので、条件が悪くなったら別のハコに移ればいいだけだ。


労働者が独立自尊の精神を持ち、専門性を磨き、会社を「自分の専門性を買ってもらう相手」と捉えることができれば、労働者はもっと自由になれる。


労働時間が長くて生産性が悪い職場だと思ったらさっさと辞めて別の場所を探せばいいし、

対価が見合ってないと思えば、もっといい条件の場所に移ればいいだけだ。



労働者と会社が家族となって、密に結合しすぎていると、会社が閉鎖的な空間となってしまう。


閉鎖空間の中で「抜け出せない苦しみ」を与えられてしまうと、心が折れてしまう。



話が発散してしまったが、会社と個人を強く結びつけてしまう風潮は、結果として労働者を苦しめることになる。


○○さん = ○○会社の人


となると、その人はその人自身の専門性ではなく、会社名で評価されることになるからだ。


○○さん = ○○のプロ


と人を見る文化ができれば、労働者はもっと会社から自由になれる。

選択肢が増える。


それは結果として労働者のストレスを減らし、「労働問題」を解決することにもつながっていくように感じるのだ。


職場に問題があると感じたなら、さっさと別のところに移ればいいからだ。



色々と書いてしまったが、世の中的には「社員が問題を起こしたら会社が謝る」のは変わらないだろう。


この点、自分の中でもスッキリと腹落ちはしていない。


とはいえ、少なくともツイッターの議論に関しては、


田端信太郎さんがムカつくなら田端信太郎さんを倒せばいい話であって、ZOZOTOWNを攻撃する必要はない


という点は外してないと思う。


幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

ここまで書いてきた内容は、今日の朝読んだ『幸福の資本論』という本に大いに影響を受けている。

この本では、日本式会社のあり方を「伽藍」とし、閉鎖空間でのネガティブゲームこそが労働者を苦しめる元凶であると語っている。


非常に面白い本なので、興味がある方はぜひ一度手にとってほしい。