『空飛ぶタイヤ』の原作は冒頭から泣ける。
* * *
君は、静かな人でした。
にぎやかなお酒の席で、自分からは騒ぐことはないけど、いつも楽しそうにニコニコしながら、冗談いってる友達を見てる。
幸せそうな君を見ていると、ぼくまで満たされた気分になったものです。
ぼくが悩んでいるときは、いつも一緒にいてくれた。
つらいときには映画に誘ってくれた。
「がんばってね」っていうんじゃなくて、沈んでいるぼくの手をずっと握って寄り添ってくれる。
そんな温かい人でした。
ぼくは今も、そんな君が大好きです。
いつだったか、公園で紙ヒコーキ飛ばしたの覚えてますか?
結婚したばかりの頃でした。
ほら、あの頃住んでたマンションの近く、高台にあった公園。
新聞の折り込み広告で作った紙ヒコーキを飛ばしました。
遠くへ飛ばそうと、君もぼくもがんばったのに、なかなか飛ばなくて大笑い。
それなのに、どういう拍子か、君のヒコーキが風にのって、遠くまで飛んで見えなくなって───。
「飛んだ、飛んだ!」
あのときの君の歓びようといったらありませんでした。
そして───。
「私たちも、あんなふうに遠くへ飛べるかな」
あのとき見せた君の笑顔は、ぼくの宝物です。
永遠の宝物です。
なのに───。
<略>
「なに泣いてるの、タカちゃん」
君がいまにも目を開けて、そう言うのではないかと思ったけれど、そんな奇跡は起きませんでした。
生きているような君の横顔をはっきりとこの目に焼き付けたいのに、止めどなく溢れる涙でぼくの視界は滲んでしまいました。
なんて悔しいんだろう。なんて悲しいんだろう。
やさしかった君。
いつも微笑んでいた君。
ぼくとタカシのことを愛してくれた君───。
君のことを決して忘れない。
いつでもぼくたちは一緒です。
ずっと一緒です。
さよならは言わない。
君のこと、愛してる。
人の命はあまりにも重い
長々と引用したのは池井戸潤 原作の『空飛ぶタイヤ』の冒頭の部分である。
映画を見た後にこの文章を読んで、僕は涙が止まらなくなった。
今までたくさんの小説を読んできたが、これほど哀しく、これほど切なくさせられた導入文はない。
なぜ涙が止まらなくなったのかというと、Kindleで原作を読みながら、その横のパソコンで眺めていたwikipediaの記述があまりにも生々しかったからだ。
空飛ぶタイヤの元ネタとなったのは、2000年と2004年に発覚した三菱自動車の大規模なリコール隠し事件である。
2002年1月10日。
神奈川県横浜市瀬谷区下瀬谷2丁目交差点付近の中原街道で、大型トレーラートラックの左前輪が外れた。
ホイールを含めて140kg近くのタイヤは下り坂を約50メートル転がり、ベビーカーを押して歩道を歩いていた大和市在住の母子3人を直撃。
母親が死亡し、長男(当時4歳)と次男(当時1歳)も手足に軽傷を負った。
映画の中で妻を亡くした柚木雅史が加害者と思われていた赤松運送の社長に向かって叫ぶ場面がある。
「妙子が何か悪いことをしたのか!
信号を無視でもしたのか!?
ただ、歩いていただけだ!
もっと死にたい奴だっているだろうに。
なんであいつなんだ」
と。
映画を見ていたとき。
僕は現実の世界で起こった三菱自動車の脱輪事件を忘れていたので、悲しみがこの身に迫ってくるような気分にはならなかった。
しかし、改めて現実の事件を調べた後に『空飛ぶタイヤ』の被害者が涙を流すシーンを思い出すと、
その気持ちがありありと想像できて涙が流れてくる。
もし自分の母親が、道を歩いていただけでトラックのタイヤに跳ね飛ばされて死んでしまったらどう思うか。
家族を殺した相手を許せるか?
構造上の欠陥があるトラックは「走る凶器」なのだ。
これから映画を観てみようと思っている人はぜひ一度、wikipediaで三菱リコール隠し事件を予習していってほしい。
ゴミのような人間がわんさかと溢れてくるのがわかるだろう。
現実でもそうだったらしいが、映画では自らの保身のために欠陥の隠蔽を図ろうとするクソのような人物が大量に出てくる。
プライドだけが高く、保身のために嘘をつくことを厭わず、隠蔽工作を図る。
原作では「ホープ自動車」とされていたが、三菱自動車工業の社風を再現したものである。
「不正を起こしても社風は変わらない」
と作中で言われていたように、三菱自動車は2016年にも燃費の実験データを改ざんする不正問題を起こしている。
作中では三菱自動車(ホープ自動車)の歪んだ組織人と戦う「組織内部の正義の人」、「運送会社」、「銀行員」の姿が描かれている。
現実の三菱自動車の問題も内部告発がきっかけで発覚したのと同様に、ディーン・フジオカ演じる沢田の活躍も見どころだ。
池井戸潤の小説はどれも、腐った組織と戦う正義を描いている。
最後に正義が勝つからスカッとして終わることができるが、現実では正義が必ず勝つとは限らないだろう。
組織はなぜ腐ってしまうのだろうか?
エリートたちはなぜ、内向きに走ってしまうのか?
組織のあり方について考えずにはいられなかった。
以下は蛇足だ。
映画を観ながら考えていたことをつらつらと述べていく。
映画の話とは少しずれてしまって申し訳ない。
サラリーマンは無敵すぎる
映画では自社の不正に気付いた沢田課長とその仲間たちが奮闘する。
内部告発を行い、不正を正そうと努力する。
が、闘っている一部のメンバーの行動が役員にバレてしまい、大阪支社に左遷されることになった。
この描写を観ながら僕はこう思ったのである。
「サラリーマン、無敵すぎワロタ」
と。
だってそうでしょう。
内部告発して、身内の犯罪を暴こうとしても普通に給料をもらえる。
大阪に転勤になっても給料が出る。
たぶんボーナスも出る。
クビにならない。
サラリーマン、ノーリスクすぎるじゃねえか...と。
池井戸潤の小説では組織の理不尽と戦うサラリーマンの姿がよく描かれるが、僕が知る限り、その人たちは誰もクビになっていない。
クビになったら話が進まなくなるのもあるとは思うけど、
偉い人と闘ってもせいぜい左遷されたり出世が遅れるくらいで、特にダメージがあるようには見えない。
- 偉い人は楯突く部下の出世コースを奪う
- 正義を貫きたい部下は上司の不正を暴く
というルールのゲームを闘っていて、出世を気にしなければ部下側はノーリスクである。
田舎に左遷されて暇だったらアフィリエイトでもやればいいのだ。
なぜそんなに組織内での出世にこだわるのだろうか。
組織での出世競争から降りれば、サラリーマンは相当楽な立場に立つことができる。
みんな出世したくて頑張っているが、出世競争はレッドオーシャンだ。
頭が良くて優秀な人たちがしのぎを削って残業合戦をして、会社が潰れたら何も残らない。
『転職の思考法』で書かれているように、
マーケットバリューを高めて、職場が変わっても持ち出せるスキルを身に付けることができれば、不毛な消耗戦から降りることができるだろう。
また、開き直った考え方をすれば、
田端信太郎さんの『ブランド人になれ!』に書かれているように、サラリーマンは失敗しても会社が責任を取ってくれて、会社の金でリスクを取れるオイシイ立場なのだ。
とはいえ、「リスクを取って名前が残る」ようにしないと、当たり前だが全ての成果は会社のものになる。
そこはうまく会社を使って、「利益は会社のもの。でも外からは自分の名前で評価される」仕事を選ぶ必要がある。
失敗しても最悪クビになるくらいで、あとは出世が遅れる程度のものだ。
そこを気にしなければ、サラリーマンはある意味「無敵の人」になれる。
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偉くなれば会社員は自由か
ちょっと前にこんなツイートが話題になっていた。
20代の子たちに聞くと「別に将来出世したり偉くなったりしたくないから」って言うんだけど、一方では「40代50代でも自分がやりたいことをしていたい」って言うんですよ。でもそれ、会社で偉くなったり業界に名を残したりしないと無理なんですよね。これから個の時代になるならなおさら。
— えとみほ (@etomiho) 2018年7月5日
制約があるツイッター上の短い文章では全てのパターンを網羅することは難しいと思うが、「20代の子たち」とえとみほさんの間には認識相違があると思われる。
20代の子たちが言う
「40代50代でも自分がやりたいことをしていたい」
というのは、「多くの部下を率いて大きな仕事をする」という意味ではなく、
- 自分の時間を自由に使える
- お金に困らず、自分の好きなことができる
というニュアンスだろう。
大企業で会社で偉くなった人たちを見て、自由そうに見えるだろうか?
40代で部長になってもその上の人から詰められ、部下のコントロールに奔走する。
本部長になっても役員から怒られ、役員になっても株主から怒られる。
そんな偉い人たちは、20代の人たちから見て
「やりたいことをやっている」
ように見えないのは仕方ないだろう。
そして、
一方で、えとみほさんが言う「やりたいことをやっている40代」というのは、
- 業界に影響力がある
- 自分の下で一緒に仕事を進めてくれる部下が大勢いる
そんな状態をイメージしているのだろう。
それなら、実績がないと無理だ。
会社のリソースを自由に使えるという意味での「やりたいことをやる」
のと、
自分のリソースを自由に使えるという意味での「やりたいことをやる」
のは、根本的にゲームが異なる。
自分のリソースを自由に使えるようになるには、
- マーケットバリューを高めてどこでも働けるようにする
- 自分の労働力以外の商品を持って、そこから収益を得る
- 株や不動産からの収益で暮らす
これ以外にない。
会社で出世したら自由になれるかっていったら全然なれない。
自分の市場価値を高めて会社の外で食っていく力がない限り、正義を貫くことすらできない。
なんとか会社の課長、なんとか会社の部長になったからといって外で食っていけるだけの市場価値があるかというと甚だ疑問だし、大企業で役員になる頃にはジジイである。
ジジイになってからの自由など、なんの価値もない。
孫の成長を楽しみにして、ゴルフするくらいしかやることがないじゃないか。
その「自由」も会社にロックインされた立場によってもたらされる自由だとしたら、会社という鳥かごの中での自由に過ぎない。
なぜこんなことを書いたかというと、
映画『空飛ぶタイヤ』で描かれた偉い人たちが全然自由そうに見えなかったからだ。
組織内部の争いごとに奔走して、やりたいことをやっているようには全然見えない。
なので別のツイートでえとみほさんもおっしゃっているように、
「辞める自由のある中間管理職」にならない限り、会社にがんじがらめにされて、
むしろ「偉くなっても不自由しかない状態」に陥ってしまう。
中間管理職って若い世代にめちゃめちゃイメージ悪いですが、それって旧来の「何があっても会社を辞められない」「会社にしがみつくしかない」サラリーマンのイメージだからであって、辞める自由のある中間管理職は面白いもんですよ。仕事自体はプレイヤーとは違った面白さがある。
— えとみほ (@etomiho) 2018年7月6日
そして、労働力以外からお金を得る術を持たないと、自分の時間を金に変えて生きることになるので、
「時間という観点での自由」
が欲しい場合は、「労働力以外の何か」でお金を生む方法を模索し続けなければならない。
「自由」の意味は広く
- お金の面での自由
- 権力的な意味での自由
- 人間関係での自由
など、自分が考える「自由像」と相手の考える「自由像」が一致していないと、話が噛み合わない結果になるだろう。
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