“ガラケー女”はデマだった?身勝手な正義感に傷つけられる人たち



あおり運転が問題となったときに「ガラケー女」としてネットリンチの被害に遭った女性が愛知県豊田市の原田市議を提訴したと話題になっていた。

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原田市議は自らのフェイスブックに、事件とは無関係だったこの女性と男の写真を容疑者として掲載。

「早く逮捕されるよう拡散お願いします」

などと書き込んだ。

女性には多い時で一日280件もの迷惑電話が入り、インスタグラムに1000件を越える誹謗中傷のメッセージが届いたそうだ。

女性は同じようなデマを流した人も特定できれば提訴する方針だという。

ツイッター上では今度は原田市議に対する批判が相次いでおり、ネットリンチの矛先は原田市議に向かっている。

正義感によりネットリンチについては、言及すること自体がブーメランになりかねない。
インターネット(特にツイッター)では、多数派が寄ってたかって一人の人間を袋叩きにする光景はよく見られる。

ネットで活動していると、意識的にせよ無意識にせよ、自分が多数派(攻撃派)に加担してしまう可能性はゼロではない。
そのため、ネットリンチへの批判は自分自身の行動に対する批判にもなりえるのだが、それでもやはり、多数派の正義を盾に他人を殴る行為は醜いと言わざるを得ない。


ガラケー女のデマを流された女性が「精神的ダメージも大きかった」と語るように、ネットで不特定多数から罵詈雑言を投げられたときの精神的なダメージは大きい。

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相手の人生に何の責任も持たないただの他人が、たいした信念があるわけでもなく、「みんなが叩いているから」という理由だけで正義を背負った気になり、一人の人間を叩きまくる。

あるいは「自分が不快になったから」と子供のような理由で、相手の人間性を否定し、心に大きな傷を負わせている。神にでもなったつもりなのか。


上のツイートの動画にもあるように、「自分のつまらない人生の憂さ晴らしに、安全圏から他人を叩いて全能感に浸る正義の大衆」は卑怯であり、卑劣でもある。

叩いている人たちは自分が正しいと信じ切っていて、正義の執行に快感すら覚えていて、自分が卑劣であるとは微塵も考えていない。

oreno-yuigon.hatenablog.com


私はネットの正義の暴走についてはかねてから強い懸念を抱いている。

正義の棒で他人を殴る人間こそが一番の加害者だと思っているし、最も下劣な人間だと思っているが、ここで「何が正しいか」「誰が悪なのか」を語っても答えは出ないだろう。

ただ単純に、正義の棒で他人を殴りまくって気持ちよくなっている人たちが嫌いなのだ。
なぜ嫌いかというと自分に実害があるからである。それ以上に適当な理由はない。

他人が自分に見えないところで何か過ちを犯しても私に実害が及ぶ可能性は低い。
それよりもネットで正義の棒を振り回す頭のおかしな連中に不愉快な気分にさせられることの方が圧倒的に多い。


以前、ネットで炎上した人に対し、「お前がやったのはセカンドレイプだ」と批判している記事があった。
苦痛を思い出させるような言葉を投げたり、被害者を中傷するような発言によって被害者に精神的な苦痛を与えることをセカンドレイプという。

ネットの赤の他人の発言に勝手に傷ついて、「セカンドレイプだ!許せない!」と叫び、その人たちに誹謗中傷を投げかける。

でも「嫌なことを思い出した!セカンドレイプ被害に遭った!」と言って、他人をひどい言葉で攻撃するのは許されるのだろうか?
攻撃された人はもっと傷ついているかもしれないのに?

ネットで正義の斧を振りかざす人たちは、自分ばかりが被害者のように振る舞っている。
しかしその正義の斧で傷ついている人もいるのだ。
自分が痛みを感じていたはずなのに、どうして返す刀で他人を平気で攻撃できるのか?

正義を語るのはいい。
正義を守るのもいい。
信念があるなら従えばいい。

でも「大衆の正義」を武器に他人を攻撃する行為が卑怯であることには自覚的であるべきだ。
ネットで活動していると、無意識に正義を背負って何かを批判してしまうこともあるかもしれない。

そんなときも後から「自分は正義で人を殴っていたのかもしれないな」と反省し、相手の気持ちを考え、自分の正義が本当に正しかったのかと省みる時間を設けるといい。