最近のツイッターに違和感がある。
怒りっぽく、他人をやたらと批判する人が増えているように見える。
謝罪を求め、でも謝っても許さない。
謝っている人に追い打ちをかけるようにひどい言葉を浴びせる。
「私は傷つきました!」
「あなたは間違っています!」
と叫びながら、自分は他人を傷つける。
一番たちが悪いのは、傷ついた誰かの「怒りの代弁者」になって、自分に何の実害もないのに他人を攻撃しまくる人だ。
そういう人がツイッター上に増えているように感じる。
毎日どこかで言葉の集団リンチが行われている。
誰かの怒りが他の誰かに連鎖し、特定のターゲットをボコボコにする光景は冷静になって眺めると異常だ。
Twitterみたいに限りなくオープンなSNSはこれからは出てこない気がしています。これは基本的に人類には向かない。
— けんすう👀@アル (@kensuu) 2019年7月21日
なので、怒りが連鎖していくこの感じは、いまが最高潮なんだろうなー、と思って割と愛おしく見ています。インターネットコミュニティウォッチャーの意見です。
けんすう氏は「割と愛おしく見ています」と波風立てないように慎重に言葉を選んでいるが、けんすう氏のツイートに僕なりの解釈を加えるとこうなる。
「ツイッターは大衆を暴走させる。怒りが次々と連鎖し、人間をおかしくさせる。ツイッターは今ピークを迎えているが、積もり積もったヘイトは臨界点に達しつつある。これからはまともな人が離れていくだろう」
糸井重里さんの投票に関するツイートに批判が相次いだ。
投票用紙に、「好きではないけど」とか「今回限りと思ってほしい」とか、「応援してるけど、無策過ぎ」とか書く欄があったら、なんの足しにもならなくても、もうちょっと行った気になれる。ヨックモックを買って帰る。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2019年7月21日
こんなものはただのユーモアだ。
何が悪いのかわからない。
「投票なんて行かなくていい!」
などと煽っているなら批判してもいいだろう。
「名前以外に何か書けたらもっと投票に行った気になるなあ」
と呟くことの何が悪いのか。
僕はこのツイートに怒っている人からは狂気じみたものを感じる。
他者の意見への寛容さの欠片もなく、モラルを守っているようで、他人に無礼を働くことは何とも思わない。
常識側に立っているつもりでいて、他人に暴言を吐くことは許されると思っている。
自分に甘く、他人に厳しい。
人を不快にしておいて、正しいことをしたと信じている。
何かがおかしい...と思うのだが、攻撃する側の人は「自分は正しいことをしている」と信じていて、その違和感は届かない。
攻撃者はいわゆる「常識の鎧」を装備しながら他人を殴っているので、
「常識を守っているのは自分だ!正義は我にあり!」
と言えてしまう。
何より厄介なのは、正義によって他者への攻撃が正当化されやすい点だ。
この感想に対して「怒ってる方々」も、こんなにいるのか。あらためて勉強になりました。 https://t.co/JWd71ULwe9
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2019年7月21日
笑って済まされない雰囲気
他者への不寛容が異常に高まっている今のツイッターでは、
「笑って済ませられる範囲」
がどんどん狭くなってきている。
そうなってきていることに多くの人が気付いていないようにも見える。
気付かないうちに少しずつ寛容さが失われ、他人に攻撃的になり、正義の暴力を振るう人間が増えていく。
いつも何かに怒っていて、ネットで怒りをぶつける対象を見つけて攻撃する。
Twitterが最近、怒りや悲しみのニュースばかりで良くない雰囲気だ、、という意見がありましたが20年間ネットコミュニティーを見ている限り、今が一番治安や内容がいい気がします😅
— けんすう👀@アル (@kensuu) July 22, 2019
けんすう氏は今度は「今が一番治安がいい気がします」と述べていたが、僕はそうは思わない。
少なくとも「ツイッターの中」に限れば、治安も内容も良くなっていない。
「2ちゃんねるが全盛だった頃に比べたらマシ」という意味だと思うが、だからといって治安が良くなっているわけではない。
タイムラインは自分で作れる
ここまで「ツイッターの雰囲気がおかしい」と書いてきたが、ツイッターのタイムラインを作っているのは自分だ。
「ツイッターに怒りが充満してるぞ...?なんだこれは...?」
というのは、自分でサウナの中に入って
「なんか暑いぞ...なんだこれは...?」
というのと同じだ。
どの部屋に入るかは自分が選んでいるのだ。
つまり、
「怒りを感じている僕自身が、怒りに触れにいっている」
という面はある。
怒りの感情には強い吸引力がある。
街で誰かが喧嘩をしていたら、つい興味本位で見に行ってしまわないだろうか?
「お、やってるやってる」
と野次馬のように覗きに行ってしまった経験がある人は多いはずだ。
ネットの怒りも同じようなものだ。
ただ、リアルの喧嘩の観戦は野次馬でいられたが、ネットの怒りは伝染しやすく、自分が当事者になってしまいやすい。
怒りの感情が自分の中に侵食してくると、消耗する。
だからできる限り、人の怒りに触れないようにネットを使うのがいい。
何を見るかは自分で選ぶことができる。
別の視点で考えると、自ら怒りを選んでいることに気付いていない人もいる、ということだ。
それが大衆の怒りを誘発している。
怒りは自分の行動につなげるべき
怒りの感情が全て悪いわけではない。
怒りは行動の源泉になる。
「こいつを絶対に見返してやる!」
と固く誓うことが、大きな飛躍につながることもある。
僕自身も過去にそういう経験があった。
「馬鹿にされたままで終われない、絶対に勝つ」
みたいに自分を奮い立たせることで、ものすごいパワーが出た。
怒りはガソリンなのだ。
しかしガソリンは自分の心の中で燃やさなければならない。
ネットで他人にぶつけて発散させても人生は何も良くならない。
感情は外に放出することで発散できてしまう。
何かに怒りを感じたら、その怒りの根本原因を克服するためにまず計画を練るべきだ。
計画を練って、具体的な行動につなげ、怒りをガソリンにして日々歩を進めるといい。
ネットで怒りをぶちまけてる人は、1年後も変わらぬ人生を過ごすことになる。
相変わらず日々不満でいっぱいで、何をやっても腹が立ち、ネットのムカつくやつを殴ってストレスを発散する。
そんな人生にしてはいけない。
正義の暴走
最近、ネットの正義が暴走している。
正義の使徒は自分に甘い。
「自分が傷ついた、不快な思いをした」という感情を盾にして、他人を傷つけることを厭わない。
誰かの意見に対して、
「それは間違っていると思う」
「引いた」
「ありえないと感じた」
と自分の意見を表明するのは何も問題ない。
しかし暴走した正義の使徒は、他人に直接暴言をぶつける。
第三者に向けられた意見としてではなく、人を直接罵倒する。
ひどい言葉を投げかけて痛めつけてやろう、という明白な悪意がある。
どっちの方が攻撃力が高いかは明白だろう。
テレビで不愉快なコメンテーターを見たときの不快感と、街ですれ違った男に
「おう、ふざけんなよてめぇ」
といきなり絡まれたときの不快感、どちらが大きいか?
直接言われた方が不快になるに決まってる。
不特定多数に投げかけた言葉と、面と向かって1対1で吐かれた言葉では重みが違うのだ。
僕は正義の使徒の暴走が最近、度を越していると感じている。
よってたかって一人の人間をボコボコにして、それで自分が正しいと思ってる。
正しくねえよ。
どう考えてもおかしいだろ。
正義の感情は簡単に暴走してしまうので、ブレーキを踏めない人は正義を行使するべきではない。
何かを伝えたくなったなら、自分の発言が相手にどう思われるかをシミュレーションして、人の痛みを想像しながら発信するといい。
......とはいえ、何かをイジったり意見を投げたりディスったりするのはツイッターの華みたいなところもあるので、「度を越さないように」が現実的な落とし所となるだろう。
姦淫した女を「打ち殺せ」と叫ぶひとびとに、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」とイエスはいいました。