常識は「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」とされているが、人によって「普通の知識や思慮分別」は異なる。
結婚式場に弁当を持ち込み、式場内で弁当を食べ、その様子をツイッターにアップした女性が一部で話題になっていた。
その方は筋トレを愛していて、トレーニーとして有名のようだった。
筋トレを愛する者として意識を高く持ち、結婚式の場でも決して妥協せず、ストイックな食事を心がけたのだろう。
そのストイックな姿勢をツイートし、筋トレクラスタの方々からは「素晴らしい」と絶賛されていた。
それがしばらくして「健全な一般人」に見つかり、大勢の人に「非常識だ!」と責められるようになった。
結婚式場に弁当を持ち込み、トレーニングに対して真摯な姿勢をツイートした女性は、まさか自分のツイートが炎上して不特定多数の人に責められるとは思っていなかっただろう。
なぜなら彼女の中では、
「高脂質な食事など口に入れず、どんなときでもストイックに高タンパク・低脂質の食事を心がけること」
が常識となっているからだ。
褒められると思っていたのかもしれない。
少なくとも、(世間から見て)常識外れの行動だという認識は全くなかったはずだ。
自分にとっての常識は、自分の半径5メートルの当たり前で決まる。
周りの人が当たり前にやっていることが、その人の常識になる。
たとえば僕の中学のときは周りはヤンキーだらけで、
「弱い先生の授業は妨害するもの」
という謎の常識がまかり通っていた。
お菓子を万引きして配り歩いていたヤンキーが皆に褒められたり、先生に派手な反抗をした生徒が称賛されたりしていた。
一般的に見て常識はずれに見える行動も、周りの人が当たり前にやっていたら、その人にとっては「自分の周り」が常識となる。
ツイッターの例を挙げると、口説き落とした女の写真をネットにアップして、経験人数を競い合っているような人達は「健全な一般人」からすると頭のネジが外れた人に見えるだろう。
しかしながら、本人たちの間では仲間内で共有される価値観が常識となっており、自分たちがおかしいとは考えない。
僕自身も女遊びに傾倒していた時期は、女に声をかけられない「健全で一般的な友人」を「女に声もかけられない臆病な人」とみなし、見下しそうになっていた。
もう少し調子に乗っていたら大事な友達を失うところだった。
自分の常識が正しいとは限らないし、自分にとっての常識が他の人にとっても常識なわけではない。
自分が常識だと思っている価値観に対しては、できる限り懐疑的でいるべきだ。
常識外れと言われがちな例を挙げてきたが、周りの常識によって自分が引き上げられることもある。
『情熱プログラマー』の「一番の下手くそでいよう」という章では
「自分が一番下手くそになるような環境に身を置けば、いつの間にか成長しているものだ」
というエピソードが紹介されている。
駆け出しの頃、自分に不釣り合いなバンドの中で、明らかに自分の演奏が一番下手くそだと感じていた。
ステージから放り出されるのが不安で、サックスをケースから取り出す気力も沸かなかった。だってそうだろう?隣で演奏している人たちは、僕が尊敬し目標にしていたハイレベルなミュージシャンなんだから。
でも、そんな状況であっても、必ず何か不思議なことが起きて、いつの間にか周りに溶け込めるようになっていた。
こうして僕は、一つのことを学んだ。
人は、どんな仲間と一緒にやるかで腕を上げることもあれば落とすこともあるということを。
ある集団との長い付き合いが、その後もずっと、人の能力に影響をあたえるということを。
自分のよりレベルの高い人が当たり前にいる環境に身を置けば、自分の能力も自然と引き上げられていく。
半径5メートルの周囲の人から受ける影響は大きい。
逆にレベルが低いと感じる人ばかりが周りにいる環境でぬくぬくと過ごしていたら、自分のレベルもいつの間にか下がっていくだろう。
ダラダラと思うところを書いてきたが、この記事で書きたかったことは3つだ。
1つ目は、自分の常識が正しいと思い込まないこと。
2つ目は、周りの常識のレベルが高ければ、自分の常識も自然と引き上げられていくということ。
最後に、自分の常識を貫くのはカッコいいが、世間の常識とあまりにもずれていると叩かれて悲しい思いをするので、ツイッターのような不特定多数の目に入る環境での発信は警戒しておくこと。