さっさと仕事を終わらせて早く帰る方がむしろ精神的に辛い



今日はちょっとまともに文章が書けなそうだけど、


「毎日ブログをアップする」


という目標はなんとか守りたいから、思ったことを短く書きたい。


今年度に入ってから意識して仕事を早く片付けて、なるべく残業せずに帰る生活を続けている。

理由はこのブログに本気で取り組んでいきたいのと、他に勉強したいことがたくさんあるからだ。


プライベートでやらなければならないことがたくさんあって、

残業をしていては人生の課題を進めることができない。

だからなんとしても素早く仕事を終わらせて、さっさと帰るしかない。



早く帰るように心がけてから、痛感することがある。



早く帰るのは、とても辛いのだ。


みんなが残業している中、残業せずに帰る。


これはとても勇気がいることだ。

残業が当たり前の職場で働いている方は、もしかしたら似た感覚を味わったことがあるかもしれない。


みんなが残っている中、PCを閉じて帰り支度をする。


翌朝普通に会社に来たら、残業した人が


「疲れた」

「大変だ」

「辛い」


と言って朝から具合悪そうな顔をしているのを見ると、本当に申し訳ない気持ちになる。

チームの人はとても良い人ばかりで、残業せずに帰ることを責められたりはしないんだけど、なんとなく気まずい気がしてくる。


他の人が頑張っているのに、余力を残して帰るのが申し訳ないのだ。


逆にたまに残業して帰るときは、とても清々しい気分になる。


元々は


仕事に人生を賭けたい


とか、


仕事は男の本懐だ


などと思っていた意識の高い人間だ。


人がほとんどいないオフィスに残り、部屋で一番最後にPCを閉じる日はとても充実した気持ちになれる。



ひんやりとした外の空気を吸って、人の少ない電車に乗って、


「今日も一生懸命働いたなあ」


と満足して帰る。


労働ってなんて気持ちが良いものなんだろう。


全力でチームに貢献しているこの感覚は、僕を本当に幸せな気分にさせてくれる。

早めに帰宅すると肉体的には楽になるかもしれないが、精神的には遅くまで残っていた方が断然楽なのだ。


そしてこの


「遅くまで残った方が楽」


という感覚を自分なりに見つめ直すと、


「アウトプットが多く出せたから嬉しい」


というよりは


「一生懸命やっている自分でいられることが嬉しい」


という感覚なのだ。


もっと言い方を悪くすると、


「一生懸命やっている姿を他の人に証明できて安心する」


感覚とも言える。


言うまでもなく、この感覚は「村社会で生きるための安心感」である。

とても不合理なものだ。


会社員の残業は少し考えただけでも不合理な点が3つある。


一つは、残業を前提とすると、日中にものすごく非効率な時間の使い方をしてしまう点だ。

たとえば、当たり前に残業する人は日中に会議を入れることに躊躇しない。

日中7時間会議して、夜は残業して自分の仕事を進める...という人も見たことがある。


こういう人は


「自分の仕事は夜に進める」


というリズムが染み付いてしまっていて、無意識に他の人の日中の時間を奪ってしまうことがある。

ダラダラとした会議はその最たる例だ。


非生産的な会議は日中の貴重な時間を削り取る大変もったいない時間なのである。

しかし当たり前に残業する人にとっては、日中の時間は夜のメインディッシュに入る前のおまけみたいなものなので、日中の時間を潰すことに抵抗がない。


みんな本当に真面目で一生懸命なのだ。


でも生産性に対する意識が絶望的に足りない。


諸悪の根源は残業を当たり前とするマインドにあると思っている。

時間があると思うから、ダラダラとしてしまうのだ。



二つ目は長時間労働が当たり前の職場だと、より長くたくさん働いた人が偉いように見えてしまう点だ。

これは本当にどうしようもない。

僕もそう思う。


一生懸命、身を粉にして働き、自己犠牲の精神の上に立っている人は本当に立派だと思う。


ただその考え方が当たり前になると、だんだんと我慢大会みたいになって、職場から


「もっと楽しよう」


という意識が消えていく。


「苦労したほうが偉いんだ」


という雰囲気が醸成されていく。


「楽をして成果を出す」


というのは実はものすごく大切なことだ。


人間がやらなくていいことは機械にやらせる。


不要な手間をかけなくて済むように、事前に対策する。


不要なことは「やらない」

費用対効果の悪いものは「何もしない」ことを選択する。


「やらない」と決めることの方が、なんでもやるよりもよっぽど勇気がいることだ。


一生懸命頑張る人は、「楽をする」ことが苦手な人がとても多い。

楽をしてしまうと、自分の存在意義が揺らいでしまうからだ。

そして、根性でなんとかすることを至上命題にすると、現状を改善する意識が消えてしまうのも問題だ。


結果として人間がいつまでも辛いが、一番辛い思いをした人は信頼を得て、職場の中心的な存在になれるため、それが気持ち良くなって現状を変えようとしない。


本来、人間が苦労しなくて良い仕組みを作った人が一番偉いはずだ。


苦労を前提とすると苦労競争になってしまう。


楽できる部分は楽をして、人間はもっと、創造的で楽しいことにリソースを割くべきだ。


僕は心の底からそう思っているんだけど、この考え方はなかなか理解されにくい。

みんな楽したいように見えて、本当は楽なんてしたくないんじゃないか。



三つ目は、長時間会社にいると、世の中の常識とズレてきて、社外に持ち運び可能なスキルが身に付かないことだ。


会社にはその会社特有のルールがある。


その会社に染まりすぎると、他で使えないようなローカルルールにばかり詳しくなって、外部の新しい知識に目が向かない。


その職場が新しいテクノロジーをふんだんに駆使する先進的な職場であれば、ひたすらに時間を投入しても人材価値が上がり続けるかもしれないが、

そうでない職場で平日の全ての時間を投入してしまうと、当然ながら社外の知見を得る時間を確保するのは難しくなってしまう。


そうすると、新しいことを始めることができず、新しい考え方も理解できず、結局は時代とズレた非効率なおじさんになってしまう。


どこの職場にもいる

「エクセル使えないおじさん」

などはその最たる例であろう。


会社のことを一生懸命やるだけだと、僕たちは将来必ず「エクセル使えないおじさん」になってしまう。

「エクセル」はもちろん単なる例で、未来に新しく誕生するであろう新たなテクノロジーに全くついていけなくなるということだ。



目の前の仕事を一生懸命やっているのに、将来お荷物になってしまうのはとても辛い。



長時間労働はこの他にも、(会社の資産ではなく)自分の資産となるプロダクトを作る時間が取れないとか、身体に悪いとか色々と弊害がある。



一生懸命働くのはとても気持ちの良いことだし、尊いことだが、視野が狭くなっていないか一度自分を俯瞰して見つめ直す必要がある。


目の前のことに熱中して、かつ長時間労働しているときは全能感に包まれやすい。


そういうときこそ一度冷静になって、非効率な働き方をしていないか立ち止まって確認する必要があるのだ。