映画『七つの会議』に見る日本人の侍魂




映画『七つの会議』を観てきました。
予告を観るとダメ社員が居眠りをしていて、同じダメ社員としてシンパシーを感じてしまったのです。

『七つの会議』は社員が一切仕事しないで内部争いばかりしていることで有名な池井戸潤の小説が原作ですが、この映画でも例に漏れず社員は誰一人として仕事をしません。

経理部は営業部の足を引っ張ることばかりを考え、営業部は営業部で社内の偉い人に怒られないことばかりを考えて仕事している会社員の様子が描かれています。

あるとき、経理部は年間90万円のコストアップを追求するために長い時間をかけて調査を進め、社長や役員がいる場で営業部を責め立てます。
そのとき経理部の人間は

「年間90万円ものコストアップですよ!どういうことなんですか!」

と叫んでいて、僕が大学生の頃なら「そうだそうだ!」と一緒になって責めていたと思いますが、社会人になってからだと冷めた目で見てしまいます。

「いや、それを調べたり会議で追求する時間の人件費の方が高くね?」

と。

9億のコストアップを責めるならわかりますが、全国に支社があるような規模の会社でたかだか90万円のコストアップを社長を巻き込んだ大問題にするのはあまりにも現実離れしていてちょっと萎えてしまいました。


『七つの会議』では「売って、売って、売りまくれ!」と社員を詰めまくって叱責する場面があります。
偉い人に怒られたときの社員は蛇に睨まれた蛙のように震え上がっていて、全く反論すらできないようでした。

僕はこの映画を観ながら

「こんなにいちいちド詰めされるんだったら辞めたらいいじゃん」

とずっと考えていました。

同時に、日本人にとって会社とは何か?という点についても。

池井戸潤の作品で描かれる会社は役職による身分制が敷かれた封建組織です。
役職が下の者は上の者に逆らうことは許されず、役職が高い人の命令は絶対となっています。

軍隊かあるいは江戸時代の侍なのか。

会社と社員は本来対等なパートナーであるべきで、転職市場が活況になるにつれ、現実の世界ではだんだんとそういう風潮が強まってきているように思います。

会社は成果に見合った報酬を、社員は報酬に見合った成果を提供するパートナーです。

しかし池井戸潤の世界観だと、会社員はあくまで「身分」であって、「役職」という逆らうことが許されないカーストの中で生きているように見えます。

ちなみに銀行のような組織では未だに封建制度が根強く残っているという話を聞きます。
ハンコをわざわざ役職ごとに傾けて押したりするのって合理的な意味はないですよね。

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上記の「キャリコネ」さんの記事より


『七つの会議』の最後の方で、主人公の八角がずっと考え続けてきた「日本特有の企業風土」について語るシーンがあります。


「日本人は侍として、1つの藩に仕えてきた歴史があり、その精神が日本の企業風土を生んでいるのかもしれない」

と語りだし、続けて日本人にとって会社は「藩」のようなものなので、欧米人とは感覚が違うと言います。

欧米人は日本企業のパワハラなどを見たら「そんな会社辞めればいいじゃん」と笑うかもしれないが、日本人にとって会社は「藩」です。
嫌になっても藩を出ることはできません。

坂本龍馬のように脱藩するような志士はごくわずかなのです。

地方転勤は島流しで出世コースから外れたら身を切られるように辛い。
藩を命がけで守るように、不正を働く会社も守ってしまう。

そんな江戸時代の価値観が今でも日本人のDNAとして残っているため、不可解な企業風土がまかり通ってしまうのだ、というのが『七つの会議』の主人公・八角の意見です。

概ね同意なのですが、僕は会社を「藩」のように捉えてしまう背景には、「転職しないことが善」とされている文化があると思っています。
「そこから出ない」ことを前提とすると、組織内で人間は政治に走るのです。

「出られない」前提だと身分が固定され政治に走る

僕は田舎の公立中学に通っていたのですが、あの頃の学校では武力による身分制が確立していました。
強いヤンキーが頂点に立ち、その下に子分のような人たちがいて、さらに下に平民がいる、みたいな。

強い人が偉く、可愛い女の子も強いヤンキーに群がるような構図でした。
僕は女の子にモテるためだけにヤンキーに入門し、最も最下層から政治を使って成り上がろうとしていました。

強いヤンキーに取り入って出世しようとしたのです。

中学時代の権力争いは苛烈でした。
時に誰かが仲間外れにされたり、影で悪口を言われたり、北斗の拳のような暴力が支配する暗黒の世界でした。

あの頃の僕は気付かなかったのですが、中学校の根底に流れていた空気は「転職を前提としない会社」と似ています。
中学は気軽に脱出することはできないので、そこでの身分が固定されてしまうのです。

身分が固定されると中の人は政治に走り、上の人の機嫌を取るようになります。

転職が当たり前ならば、おかしなことをしている会社だと思えばさっさと別を探せばいいし、理不尽なことに耐えられなかったら弁護士を使って訴えるなどすればいいのです。

でも転職を前提とせず、「終身で雇用される」ことを前提として考えるならば、会社を裏切ることなどできません。
中学生で理不尽なヤンキーの仕打ちを先生に密告することができないのと同じです。

「ずっとそこにいる」ことを前提としたら、理不尽に抵抗することはできないのです。
立場が危うくなってしまうからです。


終身雇用、年功序列の価値観が根付いている会社というか、ずっと雇用されることを前提とする場合は、会社の文化が絶対の基準となります。
外から見ておかしいかどうかは問題とならず、その会社の文脈の中で正しいかどうかが判断されるようになるのです。

『七つの会議』の八角は日本の企業風土を幕藩体制から根付いてきた日本人のDNAと論じていましたが、僕はDNAだとは思いません。
日本の強すぎる雇用規制により正社員の身分が固定化され、また転職を是としなかった文化が日本企業の内向きの体制を作り上げたと思っています。

しかし今はもう二人に一人が転職するような時代です。
古き良き(?)大企業以外では割と会社との関係をドライに捉えている人が多いように感じています。嫌なら転職すればいいし、条件が良いところが見つかったら他に行けばいいと。


「苦しみから脱出できない」と悟ってしまうと人は無気力になって絶望する、みたいな研究結果があったはずですが、転職を前提としないと組織の評価が人生の全てになってしまいがちです。

嫌なことは嫌、おかしなことはおかしい、と言うためにも、「いつでも転職できる」という選択肢は常に用意しておくのが正しい自己防衛の手段なのでしょう。