ネットで活動していると必ず「アンチ」となる人は出てくる。
アンチの中にはただならぬ情熱で批判を続ける人もいれば、目についたものを反射的に殴る人もいて、そのレベルは様々である。
ネットでの人間関係は「友人」となる少数の人を除けば以下のように分類できる。
<好き>
↑
信者
ファン
好意的
中立
好きではない
嫌い
アンチ
強アンチ
↓
<嫌い>
「信者」を作るには強烈な個性(カリスマ)と「信じてついていけば救われそうな何か」が必要で、SNSで信者を作れるような人はそれほど多くはない。
「ファン」であれば、前向きで面白い発信を続けていれば徐々に増えてくるイメージだ。
ツイッターやインスタグラムのフォロワーやブログの読者、Youtubeのチャンネル登録者の大半は「好意的」〜「好きではない」の範囲にいる。
その人が何かを発信しても批判まではしないし、わざわざヨイショをすることもない。
リアルな人間関係で言うと、悪口は言わないが、取り立てて褒めることもないくらいの関係の人だ。
それが「嫌い」以下になってくると話は変わる。
嫌いな人については発信内容云々よりも、その人の人間性そのものに嫌悪感を抱いているため、どんな発信に対しても反論を探そうとするし、たとえ自分の信条にあっている内容であっても決して賛同はしない。
嫌い度のレベルによって敵の対応は変わってくるが、「嫌い」程度であれば、「目についたらとりあえず殴っておく」くらいの反応で、積極的に攻撃することはない。
ツイッターのタイムラインにその人の情報が流れてきたときにツッコミどころがあったらつついておく、くらいのものだろう。
やられた側としては嫌な気分になるが、それほど大きな害はないのが特徴だ。
それが「アンチ」にまで進化すると、今度は批判材料を探して、「SNSアカウントでの発信の目的がアンチ対象を批判すること」みたいになってくる。
ツイッターだとアンチ同士で仲間を作る傾向があり、アンチクラスタができたりもする。
アンチ同士は仲が良い。
共通の敵を持つ人は仲間なのだ。
陰湿な中学生みたいで気持ち悪いが、いい年をした大人のアンチ同士で肩を組み、特定の対象を批判して
「よく言った」
「さすがです!」
「わかってますね〜」
みたいに称え合っている様子はツイッターの各所で見受けられる。
2ch(5ch)に悪口を投稿するのも嫌い度が「アンチ」レベルになった人だろう。
悪意を匿名掲示板に晒すことで「自分の批判が間違っていないこと」を確認し、「自分に同意してくれる人」の意見を集めてアンチ活動の励みにするのだ。
ただ、5chにはそもそも「批判が目的の人」ばかりが集まっており、5chにわざわざ書き込む人は悪口を言いたい人ばかりなので、反論が正しいかどうかの担保にはなり得ない。
「強アンチ」になるとブログで批判をまとめた記事を作ったり、アンチを率いて「アンチの会」を組織するようになる。
このレベルの「強アンチ」を作ってしまうとやられた側の対策はとても難しくなる。
というのも、「強アンチ」はその存在がアンチ活動のためにあるので、アンチ活動をやめさせるということはすなわち、ネット上の死を宣告することと同義だからだ。
強アンチは生きている限りアンチに精を出さなければならない。
ネットで活動するのであれば、「強アンチ」を生み出さないように気を使うべきである。
その基本的な心構えはこの記事で考えたい。
アンチ対策は難しい
アンチ対策はとても難しい。
アンチに気を使いすぎると発信が退屈なものになってしまうし、反論を意識しすぎると説明が長くなり、冗長な発信になる。
一方、断定口調で自分の意見を発信すると、アンチは加速度的に増えてくる。
発信に自分の思いや信条を込めた場合は、すべての人が納得できる「客観的な事実」にはならない。
そのため、何かしらの反対意見は必ず出てくる。
ブログやツイッターは教科書ではない。
「客観的な事実」はあくまで材料で、そこに自分の想いを上乗せして発信していくものなのだ。
また反論にも様々なレベルがある。
言いがかりに近い反論もあれば、自分の視点の欠如を指摘してくれるものもある。
ただの悪口もあるし、頭のおかしい人もいる。
好意を持ってくれている人は、関係が崩れてしまう恐れがあるため、発信内容が間違っていたとしてもわざわざ指摘はしてくれない。
批判は玉石混交で、何を受け入れて何を無視するかの判断は難しい。
ツイッターの場合は言いがかりや悪口、とりあえず殴っておくみたいなものが9割くらいにも感じるが、全ての反論を締め出そうとすると、だんだんと裸の王様になってきて、発信者自体がおかしくなってきてしまう。
何がアンチで何が建設的な批判なのかは実際に目で見て判断するしかなく、かといって目で見て判断して悪口が書かれていると精神的にキツくなる、という八方塞がりなのが現状で、批判についてはとりあえず、
「見つけ次第その場でまともな批判かどうかを判断し、しょうもないものは無視」
という方針が基本となる。
アンチ対応の指針
「敵を窺い変を観るは、潜にして以って深からんことを欲し、伍にして以って参ならんことを欲す」
敵の情勢や変化を観察するときには、表面の動きだけではなく、その裏に隠されている意図を察知し、さまざまな情報をつきまぜて比較検討しなければならない。
『荀子』より
ネットの活動は続けた人が勝つようにできている。
細々とやっていたとしても、長い期間続けていけば誰かが見つけてくれるもので、少しずつつながりが広がって存在感が増していく。
結局、「やめなければ勝つ」のがネットの世界なのだ。
逆に考えると、ネットで活動するならば
「ネットの世界から退場させられかねないような致命傷は避ける」
のが重要な指針となる。
「強アンチ」の悪意にまみれた批判の連続攻撃には強心臓がなければ耐えられない。
ネットの世界では我々が過ごすリアルな世界で感じるものの数十倍〜数百倍の量の悪意が襲いかかってくる。
ネットに不慣れな人は、この尋常ならざる悪意の量に耐えられず、批判を受け続けると発信をやめてしまう。
アンチに負けるようでとても悔しいのだが、発信者は悪意をぶつけられて疲弊し、悪口を言う方はノーダメージで批判を続けられるのがネットの世界だ。
ではアンチを減らすにはどうしたらいいか?
アンチを満足させる
自分が何かを発信するわけでもなく、他人を批判して気持ちよくなっているような連中の意見を「聞く価値があるのか」と言われたら基本的には「ない」
ただ、盗人にも三分の理があるように、アンチにも批判の理由があるものだ。
そしてその理由の多くは、「間違いを正してあげたい、教えてあげたい」というような優しいものではなく、
- 気に入らないから批判したい
- 自分の正しさを証明したい
- 相手を見下し、自分が上であることを確認したい
というような、下卑た動機からである。
それらの動機を満たせば、アンチの攻撃が止む可能性がある。
具体的には、何かを指摘されたらその指摘が有用ものは素直に感謝して直せばいい。
指摘が有用ではなく意味不明のものでも、「ありがとうございます。勉強になります」とお礼を言えばいい。
「相手を屈服させて、自分が正しく、上であることを確認する」ことが目的の批判なら、これでアンチは満足する。
この対応が効く確率は50%程度だろう。
ただの悪口は受け流す
一番対応が難しいのは「ただの悪口」である。
「ただ嫌いなだけ」という人の感情については基本的には受け流し、「時々あからさまに褒めて媚びを売る」くらいしか対応がないだろう。
嫌われているうちは延々と悪口を言われるのだ。
かといって好きになってもらうのは容易ではない。
リアルの世界だって、一度嫌いになった相手と仲直りするのは難しいだろう。
小学校や中学校、高校のように同じ人間関係がずっと続くなら修復するよう努力するものだが、大学以降の人間関係の縛りが緩い環境であれば、嫌な奴とは関わらない自由がある(職場は除く)
ネットはその最たるものだ。
ただの悪口に理屈をつけて、
「○○と言ってるやつは頭が悪そう」
とか、
「XXは全然わかってない」
みたいに、他人の発信に乗っかって一言批判してくる人がいる。
この問題を長々と考えていたが、この手の批判は対応が一番難しい。
反論の根拠は示さず、「頭が悪そう」「わかってない」「馬鹿ww」などと書かれると、
「そうだな...お前がそう思うんならそうなんだろう」
としか言いようがないのだ。
自分は頭が良く、立派な人間だと思い込み、自分たち以外の人間を見下している「冷笑系クラスタ」にはこの手の人間が多い。
なるべく目をつけられないようにしていきたいものだ。
冷笑系クラスタの人間がこの記事を見つけたら
「こんなことを毎日悩んでるならツイッターに向いてないからやめた方がいい」
みたいに上から目線で批判される可能性が高い。
とにかく誰かを見下していたい人たちで、自分とその周りの人間以外はみんな馬鹿だと思っているような連中だ。
断定口調を避けるとアンチは減る
何かを断定して語ると、必ず「俺はそうじゃない」と批判する人が出てくる。
かといって、反論をあらかじめ予想して色々と説明しながら語るにはツイッターの文字数は足りなすぎるし、ブログにすると長くなりすぎる。
短く断言してしまった方が文章の切れもよく、言いたいことがハッキリ言えてよい。
しかし、必ずアンチがついてくる。
フォロワーや読者が増えると、文章で注目を集めていたアカウントの運営は難しくなる。
露出が増えるということは、敵も増えるということだからだ。
気を使いすぎると誰にでも言える凡庸な発信しかできないし、気を使わなすぎるとすぐに炎上してボコボコに殴られる。
炎上の火種はツイッターに転がっているので、ツイッターでの発信はマイルドに、ブログで好き放題書いたときはツイッターに流さないのがいい。
この記事もツイッターに流す予定はない。
はてブでバズっているわけでもないのに、ブログをわざわざ読みにきてくれる人は、そんなに悪意を持っている人はいないだろうという安心感がある。
そう、発信する場所を選べばいいのだ。
道は一つではないんだ。
長期的なアンチ、短期的なアンチ
アンチには長期的なアンチと短期的なアンチがいる。
ツイッターなどで炎上すると大量の悪口が書き込まれ、スクショを取られ、批判されまくることがあるが、ここで悪口を書き込む人はほとんどが「短期的なアンチ」だ。
みんなが叩いているから叩く程度のもので、たとえキモチップで炎上しようと、飲食店の予約の問題で炎上しようと、一ヶ月後には全部忘れられている。
短期的なアンチの問題は時間が全てを解決してくれる。
厄介なのは長期的なアンチだ。
こちらの存在を敵として認識し、ことあるごとに批判しようとしてくるアンチアカウント。
そんなアンチアカウントをできるだけ作らないように心がけるのがいい。
アンチが長期アンチになるのは、自分に危害が加えられたと感じたときが多い。
「危害」というのは
- 経済的な損失を被る
- 反論に反論されて喧嘩になる
- 不快な気分にさせられる
- 見下されてプライドが傷つけられる
などだ。
アンチとは違うかもしれないが、情報商材などを売っている業者で、明らかにおかしなことを語っているのにやたらと持ち上げられている人にも長期的な批判者がつくことになる。
カリスマとして持ち上げられている人にも必ずアンチがつく。
ここまで考えていくと、必然的にたった一つの真理にたどり着くことになる。
すべての人に好かれるのは無理
当たり前だが、人間には本音と建前がある。
リアルの世界ではみんなが気を使って、人間関係を壊さないように気を使っていくものだが、人はネットの世界で悪意を隠さない。
壊してもいい人間関係に対しては人は残酷になれるもので、何かを発信したらそれに対して文句をつける人は必ず現れるのだ。
「空が青い」
「晴れの日は気持ちがいい」
などの発信を続けるわけにもいかないだろう。
人に何かの主義主張がある限り、必ず反対者は現れる。
みんなに好かれるのは無理なので、自分の好きなように発信するのがいい、という結論に落ち着く。
好きなように発信していれば、中には共感してくれる人も出てくるものだ。
アンチに気を取られて発信内容が萎縮してしまうのはもったいない。
- 人の悪口はできるだけ言わない
- 自分はアンチ側に回らない
- 悪口を言われても殴り返しにはいかない
などの、他人に干渉しないスタンスを貫きつつ、自分の好きなことを発信するのがいい。
誰しもアンチを抱えるこの残酷なネットの世界で生き延びるたった一つの方法は、
「鈍感力」
を身に付け、自分が正しいと思う道を堂々と歩むことだ。
最後に、アンチが現れて傷ついたときの現実的な対応を書き加えておく。
ネットの世界から離れる
「ネットの世界から離れる」というのは、ツイッターやブログで炎上した時にものすごく効果がある。
スマホを置いて、画面から目を離して上を見ると、驚くほど炎上とは無関係な世界が広がっている。
ネットの世界が自分に干渉してくる割合を調整しよう。
「ネットの世界が自分の全て」みたいに、引きこもってネットに浸って生きるのは良くない。
別の記事でも書くが、ツイッターや匿名掲示板の世界に長く触れているとだんだん人間が嫌いになってくる。
嫌な奴ばかりに見えてしまうからだ。
「性格が歪む」という曖昧な表現はしたくないが、人の嫌な面ばかりを見ていると疑り深くなってしまう。
嫌な気分になるものは目に入れないようにするのがいい。
リアルの世界ではネットほど嫌な奴は出てこない。
ツイッターの裏垢なるものをやっていたり、匿名掲示板に書き込むのは限られたごく一部の人間に過ぎない。
僕はネットの世界に染まりすぎて、人間を悪いように見る傾向がある。
おそらく実際の人間関係はネットの世界ほどじめじめとはしていない。
そしてネットの世界でも、関わる相手を選べば陰湿な世界とは距離を置くことができる。
エゴサしない
ネットの世界を生き抜くには鈍感力が必要だと言った。
「強アンチ」を生み出さないように気を使いつつも、多少の悪口は気にしない鈍感力を身につけること。
それがネットの世界を生き抜くコツだろう。
もう一つ大事なのは、当たり前のことだが、僕たちは情報を目で見て取得する。
DMで「悪口言われてますよ」みたいに送ってくる人は少数なので、自分から情報を取りに行かなければ嫌な情報は見えない。
見えない情報は無いものと同じだ。
エゴサせず、余計な通知は表示しなければ、余計なものは見えない。
批判も賛同も求めず、好きなことを発信するための第一歩が
「エゴサーチをやめる」
ことだろう。
嫌な批判はだいたいエゴサーチで見つかるし、エゴサーチして何かいいことがあるかといえば、労力に対して得られるものは少ないはずだ。
一面だけにとらわれてはいけない
ネットの悪意に触れたのをきっかけに、かつて「性悪説」を唱えた『荀子』を読んでいる。
彼は
「およそ人の患いは一曲に覆われて大理に闇きにあり」
と言った。
「心が惑わされるのは好悪の感情に左右されるからである。
始終、遠近、広狭の一方にとらわれるからである。
どんなことでも、一面だけにとらわれると、心が惑わされて大局的な判断ができなくなってしまう」
という意味だ。
『荀子』の思想を理解したとは言えないが、ネットで悪意ばかりを見て、その悪意に囚われていると心が惑わされ、大局的な判断ができなくなってしまうのかもしれない。
アンチにも良い面があるのかもしれない。
この文脈で『荀子』を具体的なアドバイスにつなげるのは難しいが、インターネットの嫌な面に囚われすぎることなく、良い仲間を見つけるためにツールになる面があることも忘れずにいたいものだ。