「この文章で筆者が最も伝えたいことは何か?150文字以内で説明せよ」
大学受験の国語で散々聞かれてきた問いである。
文系だろうと理系だろうと、この類の問題を解いたことがない日本人はほとんどいないだろう。
定期試験でも聞かれる定番中の定番の問題だからだ。
「文章を読んで、筆者が何を伝えたいのかを考える」
のは読解の基本である。
しかし、最近のネットの炎上や争いを眺めていると、筆者の主張を読み取ることよりも、自分の読みたいように文章を読んでいるような事例が多いように感じる。
読み手に解釈の幅を与えてしまうのは、書き手の表現力による部分が大きい。
伝えたいことを正確に言葉にするのは難しく、たとえプロが書いた文章でも、ある程度の解釈の幅が生じてしまう。
一方でネットの文章に関しては、表現力による解釈の幅を越えて、書き手の伝えたい内容とは全く別の意味で解釈されることも多い。
意図した内容と全く別の意味で文章を読まれてしまうのだ。
なぜだろうか?
最近、著名な起業家であるけんすうさんがR25のインタビューで、
「発信の評価は表現だけにひっぱられる」
と語っていた。
SNSの発信って、「内容と表現の掛け算」ですよね。でも、その発信の評価は「表現だけにひっぱられる」と思うんです。
僕、イケダハヤトさんやはあちゅうさんが炎上した内容を、パクって表現だけ変えて投稿するっていう実験をたまにやってるんですよ。
あっちはめちゃめちゃ燃えてるのに、こっちには「さすがです!」と賞賛コメントがついたりするんですよ。内容は同じでも表現が違うだけなのに。
はあちゅうさんやイケハヤさんと同じ内容のツイートでも、表現を変えると炎上が賞賛に変わることもある、と。
先ほどの図で言うと、「伝えたいこと」は同じでも、
表現によってポジティブに解釈されることも、ネガティブに解釈されることもあるということだろう。
図が雑で申し訳ねェ。
けんすうさんの
「伝えたいことは同じでも表現の仕方によって受け手の反応が異なる」
という主張は正しい。
表現を工夫することで不要な摩擦を抑えることができる。
一方で、ネットの炎上を眺めていると、明らかに書き手の意図とは全く別の意味で内容を解釈されているケースも散見される。
図にするとこんな感じ。
書き手が意図して炎上を起こしているならいいのだが、書き手の意図とは全く別の方向で誤解される場合もある。
そのようなネット文章の誤解は
(1)読み手が書き手に抱いているイメージによって、読み手の脳内で文章を別のものに書き換えられているケース
(2)読み手の強い主張(思い込み)が先にあって、書き手の文章を読まないケース
に分けられる。
ネットの文章の印象は書き手のパーソナリティに引きずられる部分が大きく、
「好きな人が書いている文章だから好き」
「嫌いなヤツが書いたものは全部嫌い」
という、子供のような解釈がよく行われている。
人は書かれている内容を読むのではなく、自分が読みたいように文章を解釈するのである。
ネットの文章は消費されるもの
ネットの文章を読むとき、僕たちの多くはそれほど注意を払うことなく文章を流し読みしている。
教科書を読むときのように、ペンを持って線を引きながら読むわけではない。
「スマホで読む」
という行為は文章を咀嚼するものではなく、流して消費していくエンタメなのである。
当然、「書き手は何が言いたいんだろうか」とじっくり注意を傾けるような面倒なことはしないため、解釈がイメージに引っ張られてしまう。
ここでいう「イメージ」とは、「書き手に対して抱いているイメージ」であったり、
あるいは読み手自身のバックグラウンドに基づいた「物事へのイメージ」だったりする。
要はネットに書かれている内容は、自分が「こういう内容だろう」とあらかじめ抱いていたイメージにかなり引っ張られるということだ。
イメージによる侵食が大きい場合、書かれている文章は脳を素通りするか、あるいは脳内で別のものに変換されて、しばしば書き手が伝えたいことと全く別の意味で解釈されることがある。
何を書くかよりも、誰が書くか。
書いた誰かのイメージによって、受け取り方は全く別のものになってくるのだ。
悪意のメガネを通して見た世界は灰色に見える
「嫌いなやつの言っていたことは全部嫌い」
といった、子供のような喧嘩がネットではよく起こる。
「ウェブ2.0」という言葉が独り歩きし、インターネットの可能性が喧伝された2000年代最初の頃は、
「インターネットは誰でも自由で平等で、誰が言うかよりも何を言うかで評価されるフラットな世界だ」
と言われていた。
しかし2018年の今、インターネットを見てみると、発言は「個人のアカウント」に強く紐付いて、
インフルエンサーの発言は無条件に受け入れられがちだし、
嫌われている人の発言は全て悪いように解釈されて叩かれる。
「何を言うかで評価される時代なんて来なかった」
のが現実だろう。
僕たちはそれぞれ、自分の「価値観のメガネ」をかけて世界を見ている。
そのメガネは世界を少しだけ都合よく歪め、
「自分がこうあってほしい」
と願った世界に見せてくれる。
この世界は誰から見ても同じように見えるわけではないのだ。
イメージコントロールはネット時代の必須スキル
ここまで書いてきたように、発信内容はその人のイメージに強く引きずられる。
この現象に対して、
「物事をフラットに見ることのできない奴はアホだ」
とか
「読解力のない愚か者は相手にしてはいけない」
とか、対立姿勢で挑もうとするのは得策ではない。
「人はイメージに引きずられる」
という性質を前提とした上で、自身の振る舞いを考えていくべきだろう。
すごく嫌らしい言い方をすると、好感度を上げておいた方がネットでは何かと得である。
ヘイトを溜め込んでしまうと何を言っても叩かれて消耗するし、
逆に好感度が高いとちょっと失言しても好意的に解釈されることが多い。
この「イメージコントロール」のスキルは、ブランド人になるよりも、インフルエンサーになるよりも、
ネット芸人のお作法としては大切なものである。
→田端信太郎さんの『ブランド人になれ』は読んで自分で考えて教訓を得る本
「本当の私」はどこにいるのか
「イメージをコントロールせよ」というと、腹黒く、ずる賢そうな印象を受けてしまう。
事実、イメージコントロールのスキルを悪用すると、ネットで自分を大きく見せてサロンに誘導したり、
カリスマのように振る舞って情報商材を売りつけることも容易である。
僕はこのような誇大広告によってブランディングするのはあまり好きではないし、品の良い商売とは言えないと思っている。
→ふろむだ著『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』は一度読めば世の中の見方が変わる本
近頃よく言われる
「インターネットで嘘を発信するべきではない。
自分を正直にさらけ出し、真実を伝えるべきだ。
信用こそが我々の資産なのだから」
という主張にも全面的に賛成だ。
とはいえ、どんなに真実を伝えようと頑張っても、受け手は「抱いているイメージ」によって解釈を捻じ曲げてしまう。
なので、「イメージコントロール」は決して「嘘をつけ」という意味ではなく、
・自分がどのように受け取られているか
・自分がどのようなイメージを与えているか
を意識しながら情報発信した方がいい、ということなのである。
「本当の自分を発信する」といえば耳障りがいいが、他人は他人のメガネを通じて世界を見ている。
「本当の自分」をありのままに見てもらうことは、そもそも難しいことなのだ。
このような現実を踏まえ、多少セコくても「他人のイメージ」をポジティブな方向にコントロールすることができれば、
発信内容を意図した通りに読んでもらえる可能性も高くなる。
イメージコントロールは伝えたいことをきちんと伝えるためのスキルでもあるのだ。