令和の前に振り返る、心に残る平成の思い出



ツイッターで流れてきたソフトバンクのCMが心に響いた。

華原朋美が歌う「思い出のアルバム」に乗せて、今をときめくYoutuber達が「もし平成元年に僕らがいたら」を演じている。

音楽を聴きながら映像を眺めているうちに次々と思い出が溢れてきて、じわり涙が出てきた。
「エモい」とはこういうことを言うんだな、と感じた。


駆け抜けるような平成だった。
僕の青春の全ては平成にあるが、振り返るとあっという間だ。

♪ ♪ ♪

いつのことだか思い出してごらん

♪ ♪ ♪

あんなこと
こんなこと
あったでしょう

♪ ♪ ♪

初めての 彼女と
手をつなぎ 歩いた

一週間後に 振られたよ〜



昭和天皇が崩御し、元号が平成に変わって新時代が幕を開けた1989年。

円高抑制を目的とした日銀の金融緩和がもたらした日本のバブル経済は最高潮に達した。
1888年に3万円を突破した日経平均株価は89年12月29日の大納会で3万8957円の史上最高値を付けた。

しかし90年に入ると日経平均は急落。
翌91年には不動産融資の総量規制の影響が出始め、92年にはバブルの崩壊が鮮明になる。

失われた20年。
いや、30年になろうか。

経済的には“失われた時代”とも呼ばれた平成だが、僕たちの心の中のアルバムには失われることのない思い出が残っている。
この記事では超個人的な「自分の思い出のアルバム」を振り返ってみたい。

もしかしたらアラサー世代には共感してもらえるかもしれないが、平成生まれの人や現在20代前半の人にはほとんど意味がわからないはずだ。

ドラゴンボール

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幼稚園から小学校にかけて、僕たちの心を掴んでいたのは間違いなくドラゴンボールだった。
休み時間にはドラゴンボールごっこをして遊び、一番権力を持った大将的な少年が「悟空」の役を取った。

やられ役のような少年が「フリーザ」の役を取り、僕はいつも「ピッコロ」だった。

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あれから30年が経った今、頭髪がピッコロになっているのは何かの予言だったのだろうか。

悟空は少年たちのアイドルで、みんな大人になったらかめはめ波が撃てると信じていた。
僕の平成の記憶はドラゴンボールから始まる。

忍たま乱太郎

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がっかりしてメソメソして どうしたんだい?
太陽みたいに笑う 君はどこだい?

光GENJIが歌う「勇気100パーセント」は小学校の合唱コンクールで歌われるくらい流行っていた。
夕方頃、リビングで食い入るように忍たま乱太郎を見ていたものだ。

年をとっても悟空にはなれないし、かめはめ波も撃てない気付き始めていたが、忍者にはなれるかもしれないと思っていた。

忍たま乱太郎がブームになった頃と同じ時期に、PUFFYと呼ばれる二人組が流行った。

小学生ながらに近頃の私たちはいい感じだと思っていた。

涙の数だけ強くなれると思っていたし、

恋の味を知った小学校高学年の頃には、「愛されるよりも愛したいマジで」とラブレターを書いて下駄箱に入れ、返事がこなかった。

そしてラブレター代わりなのかはわからないが、たまに下駄箱に画鋲が入っていた。

忍たま乱太郎が流行り、PUFFYを踊り、Kinki Kidsの光一と剛どちらが好きかで小学校の女子の派閥ができ、岡本真夜は今田耕司にそっくりだった。

僕の小学校時代の話だ。昭和生まれ、平成育ちの小学生だ。

たまごっち、ミニ四駆、ハイパーヨーヨー

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白いたまごっちが4万円で売られていた時代があった。
もしこの時代にメルカリがあったなら、転売ヤーがイナゴのように白たまごっちを買い漁り、ネットに出回っていたに違いない。

ドット絵のたまごっちに餌をやり、トイレを流し、成長したら蛇になったり親父になったりして面白かった。

小学校高学年。
僕たちのヒーローは悟空ではなくミニ四ファイターだった。

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世は空前絶後のミニ四駆ブームで、大海賊時代ならぬ、大ミニ四駆時代だった。
小学生の9割がミニ四レーサーで、そこら中のおもちゃ屋で毎週のようにミニ四駆の大会が開催されていた。

かくいう僕も、ミニ四駆の聖典「ジャパンカップ」に参戦したことがある。
ミニ四駆に青春の全てを掛けていた僕は、そのあまりの速さに地元で「四駆郎」とも呼ばれた。

地元の期待を一身に背負い、親に都会に連れて行ってもらって参戦したミニ四駆の全国大会・ジャパンカップでは、一回戦でコースアウトして負けた。
平成全てを振り返っても、あれほど涙を流した夜はない。

ミニ四駆ブームが一段落した頃、ハイパーヨーヨーが流行った。

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ミニ四駆に比べて爆発的なブームにはならなかったのでハイパーヨーヨーについては割愛する。

ファイナルファンタジー7

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中学に上がった頃にプレイステーションが発売され、カセットではなくCDを入れるゲームにえらく感動したものだった。
特にファイナルファンタジー7は革命的だった。

立体になったキャラクターが走り回るのも衝撃だったし、ストーリーもバトルシーンも、チョコボのミニゲームも全てが完璧だった。

昭和生まれ平成育ちのRPG好きの少年にとって、

  • ドラクエ3
  • ドラクエ5
  • ファイナルファンタジー5
  • ファイナルファンタジー7

は忘れられない名作だっただろう。

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公衆電話で彼女の家電に電話

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当時は携帯電話なんてなかったし、家の電話で長電話すると親に電話線を抜かれるというパプニングもたびたび発生したため、誰にも邪魔されずに彼女に電話するには緑色の公衆電話を使うしかなかった。

忘れもしない中学2年の冬。
人生で初めての彼女ができた冬。

僕は浮かれて四六時中彼女のことばかりを考えていた。
この数年後に「ケミストリー」と呼ばれる二人組が流行ることになるのだが、彼らが歌う「愛しすぎて」という曲は中学の頃の僕が作曲したのかもしれない。

愛しすぎて もう戻れなくて
愛しすぎて 震えてた手に
愛しすぎて ぬくもりだけが

などと歌うでもなく、公衆電話から毎日彼女に電話をした。

しかし付き合い始めて一週間が経った頃、二人の関係に異変が生じた。

彼女が居留守を使い始めたのだ。

あろうことか、親までグルになって彼女を匿った。
だが清く正しく美しくDTだった僕は、そんなことでは諦めない。

何度も電話し、電話線を抜かれ、手紙を送り、無視され、彼氏とは一体何なのかと考えた。
中学生の僕にはあまりにも辛い試練だった。風来のシレンだ。

二週間が経った頃、なんと彼女は学校の番長的な男に奪われていたことを知った。

危なかった...。
これ以上彼女につきまとったら番長に殺されるところだった...。

番長と僕では圧倒的な戦力差があったため、初めての彼女からは可及速やかに撤退した。
愛は命に変えられない。
死んだら元も子もないのだ。

僕は彼女のことは忘れ、思い出の中にしまうことに決めた。


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GLAYとL'Arc~en~Ciel

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僕の地元だけかもわからないが、とにかくGLAYとラルクが流行っていた。
中学はGLAY派はラルク派かでわかれ、ヤンキーたちはラルクを好んでいたように記憶している。

特に全盛期のhydeは世界中のイケメン要素を全てかき集めてきたようなカッコよさで、学校中の全ての女生徒がhydeに恋していた。

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3枚連続でCDを出し、そのどれもが飛ぶように売れていた。

全盛期のGLAY、そしてラルクのカリスマぶりは、この時代を生きた人間にしかわからないだろう。

何を歌っても名曲で、何をやらせてもカッコよかった。
SMAPのメンバーも仲が良くて、島田紳助がテレビに出ていて、宇多田ヒカルが天才少女ともてはやされた時代だった。

人生で初めて行ったカラオケで歌ったのはGLAYの「SOUL LOVE」だった。
普通に歌っていただけなのに、ヤンキー連中に大笑いされたのは今でも覚えている。


Dragon Ash

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僕が中学3年になる頃に突然、ラップを口ずさむヤンキーが増えてきた。

「そう目覚めの悪い朝から始まる」

「静まる空気呼び覚まし染まる」

などとブツブツとつぶやきながら歩くヤンキーを見て、ついに頭がおかしくなってしまったんだなと思った。

しかしこれはタバコやシ◯ナーの影響で頭がおかしくなったわけではなく、Dragon Ashの曲の練習をしていたのだ。

僕の周りでラップを口ずさむ人はそれまで誰もいなかったが、突然学校中でラップが流行り始めた。

特に「Viva la Revolution」に関しては、僕と同世代の人で知らない人の方が少ないだろう。

中学でイケてる奴になりたい奴は、みんなDragon Ashを歌おうとしていた。

「Grateful Days」の

「俺は東京生まれ hiphop育ち 悪そうな奴はだいたい友達」

は日本で一番有名なラップのフレーズである。

Dragon Ashを知らなくても「東京生まれhiphop育ち」の名フレーズを聞いたことがある人はいるのではないだろうか。

降谷建志とジブラが一緒に歌ってる姿が懐かしい。

パカパカの携帯電話

初めて買ってもらった携帯電話はJ-Phoneと呼ばれるキャリアのものだった。
Softbankの前身だ。

メールを一通送るのに4円かかり、受信するのに1円かかった。

その後は誰も彼もがパカパカの携帯電話を買うようになり、僕も念願のドコモに変えた。
ドコモの絵文字はあの頃の僕たちの憧れだった。

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LINEでも使えるドコモ絵文字

今ではLINEで絵文字を使うおっさんはキモいと言われがちだが、当時はむしろ、絵文字を使うほうがイケメンだった。
ツイッターでは時々、キャバ嬢に「おじさんLINEがキモい」と晒されるが、絵文字満載のおじさんは昔はイケメンだったに違いない。
自分が年を取ってしまったことを忘れているだけなのだ。


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ワンコールとチェーンメール、光るアンテナ

「ワンコ」と言っても平成生まれの坊やたちには通じないだろう。
ワンコは犬ではない。電話を鳴らすことを指す。

携帯電話が普及し始めた頃は通話料金が腰を抜かすほど高く、携帯電話なのに電話なんてできたものではなかった。
そのため、挨拶代わりに

「プルル」

と一回だけコールを鳴らすお作法が流行したのだ。

僕は気になる女の子の携帯番号をゲットすると、その日から毎日必ず0時にワンコールを鳴らした。

「好きです」と言えない僕が、胸いっぱいの好意を伝えるための、精一杯の挨拶だった。
「おやすみ」と伝えたつもりだった。

一週間も経つと、0時にコールを鳴らそうとすると、

「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか 電源が入っていないため おつなぎできません」

という機械的な音声が流れるようになった。告白する前に振られたようで悲しかった。

あの頃の携帯電話にはアンテナがついており、電波を受信すると光るアンテナが一部で流行った。

「このメールを大好きな友達5人に回してね」

みたいな、人と人が鎖のようにつながっていく「チェーンメール」も流行った。

僕は当時から文章を書くことは苦手ではなかったので、あろうことかチェーンメールを自ら作り出し、好きな女の子に送付したものだった。

「好きな友達5人に送ってね」

と友達に送ったにも関わらず、僕には誰からも回ってこなかった。

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ハイ・スタンダードとモンゴル800

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これも僕の地元だけかもしれないが、高校3年生の頃に「モンゴル800」が死ぬほど流行った。
どれくらい流行ったかと言うと、今でいうとSpotifyの全ユーザーのプレイリストが全てモンゴル800で埋まるレベルだった。

TSUTAYAでレンタルできない「Message」というアルバムを、みんなでMD(Mini Disk)に録音して回した。

当時の僕は恋の奴隷だったため、好きな子のために必死になって「Message」を探し、手に入れ、MDに録音してプレゼントした。
最後に僕からのメッセージを入れてやろうかと思ったが、それはさすがにやめておいた。

ハイ・スタンダードはモンゴル800の少し前に流行ったパンクバンド的なやつである。
楽器を弾ける人達が学校祭のステージでハイ・スタンダードを演奏していて、僕はもっぱらステージから飛び込むモッシュ&ダイブもとい、突撃零戦要員だった。

輝かしい高校時代だった。
今は社畜として消耗し、すっかり干からびて、輝いているのは頭だけである。

あの頃にもう一度戻れるなら寿命が3年縮んでもいいと思っていたこともあった。
でもそんな夢は当然叶わない。
いつだって今が全盛期になるように、日々決断して環境を変えていくしかないのだ。

HYと175R

大学に入る少し前に「HY」と呼ばれる人たちが流行った。
大学1年生の頃のカラオケではみんな、HYの「AM 11:00」という曲を歌っていた気がする。

「目を覚ましてよ 君の声が僕を包み」

などと甘い歌詞の曲を聴きながらカラオケでカルーアミルクを飲むぬるい大学生活だった。

などと油断していたら、徐々にこういう甘い曲は歌わなくなり、だんだんと一気飲みをさせるためだけの選曲にシフトしていったのが大学後半だった。

僕の中で「THE BLUE HEARTS」は一気飲みさせる人達のイメージでしかない。

同じ時期に「イナゴライダー」と呼ばれる人達も流行っていて、空を見上げて雲を見つめると、あの頃の曲がフラッシュバックしてくる。


ケツメイシと夏の思い出

大学中盤からケツメイシが爆発的な、というか異常なブームとなった。
とりあえず合コンで何かを歌うなら、ケツメイシだったと記憶している。

車の免許を取り立ての大学生が、とりあえずドライブで流すのはケツメイシだった。
何かあったらケツメイシを流しておけばオッケーみたいな空気があった。

とりわけ印象に残っているのは「さくら」という曲だ。
PVの鈴木えみの桜に負けない美しさはもはや伝説的といってもいいだろう。

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僕の仲間たちもみんな鈴木えみの美しさに度肝を抜かれていた。

エビちゃんブーム

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CanCamという読モ雑誌が流行っていた。
赤文字系のファッション雑誌ともいう。

ケツメイシの「さくら」に出ていた鈴木えみも有名な読者モデルだったと記憶しているが、社会現象になるくらいのブームを巻き起こしたのがエビちゃんこと蛯原友里だった。

都会には「エビちゃんOL」と呼ばれる赤文字系のOLが跋扈し、皆がエビちゃんの格好で合コンに出ていたらしい。

そんな赤文字系ファッション雑誌が全盛期の中であったが、合コンで

「どんな有名人が好き?」

と聞かれたら、僕は必ず

「田中美保」

と答えていた。

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たしかノンノのモデルだったと思う。
美人ぞろいのノンノモデルの中で、この人は群を抜いて可愛かった。

あと、好みの芸能人に挙げると女子の好感度が上がりやすいという意味でも重宝した存在だった。

ミクシィ

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大学の図書館の画面がオレンジ色に染まる異常な光景を見ることができたのは、後にも先にもあのときだけだろう。
夕暮れではない。ミクシィである。

2006年。僕たちはミクシィの熱狂の中にいた。
誰もがミクシィのアカウントを持っていて、大学に行かなくてもミクシィを見れば誰が何をやっていたかがわかる安心感があった。

ミクシィの時代は5年ほど続いただろうか。
国内では無敵と思われたミクシィがなぜか足跡機能を廃止したり、日記をツイッターっぽくするなどして迷走し始め、蜘蛛の子を散らすように人がいなくなっていった。

それからiPhone3Gが発売され世の中はパカパカからスマホにシフトしていく。
平成最後の時代の変わり目だった。

いま思えば、東日本大震災の頃がミクシィの黄昏だったような気がする。
2011年の後半からはミクシィを開く人は誰一人としていなくなってしまった。

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おしゃれキング

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「オシャレであること」が最も評価されたのが大学時代だろう。
そしてオシャレ界の中で唯一無二の存在感を放っていたのがSHIMA原宿の美容師、奈良裕也様だ。

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サロン系ファッション雑誌「CHOKi CHOKi」の「おしゃれキング」特集で抜群の存在感を放っていた奈良裕也さん。
今でこそ「ユニクロを着こなそう」とか「安くてオシャレに見せるコツ」なんてものが流行っているが、奈良さんのファッションはユニクロでは絶対に実現できない。

当時の大学生が一ヶ月必死にアルバイトしてやっともらえる給料を全て注ぎ込んでやっと買える価格のジャケットを軽々と着こなし、彼に憧れた学生の多くがファッション破産を余儀なくされた。

人を魅了してやまない甘い外見に、彼にしか着こなせないアイテム。
流行りものに乗っかって金太郎飴になりがちなオシャレ界隈で、奈良裕也だけの世界観を作り上げていた。

奈良裕也の前にキングなし。
奈良裕也の後にキングなし。

というのが僕の認識である。
実際は色々とキングはいたが、彼はキングの中のキングだった。


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コール選手権

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大学はコールに始まりコールに終わった。
ビールも飲めずに入学した大学の新歓で一気飲みコールをかけられ、止まらない吐き気にトイレから出られなくなった。

これが大学の洗礼かと脳が溶けていくような気になったものだ。
古今東西ありとあらゆるコールを研究し、毎晩毎晩浴びるように酒を飲んだ。

「とんでもないコールをする奴らがいるぞ」

と合コン仲間が見つけたのが「コール選手権」だった。

大学飲酒界では面白いコールを持っている奴が尊敬される。
その意味で、コール選手権で不動の一位を誇る横浜市立大学男子寮の皆さんは我々にとって神であった。

思えばよくもあんなにも飽きずに毎晩飲んだものだ。
実に空疎で不毛で楽しかった。

一気コールははしかのようなものだ。
学生時代に一度かかって、社会に出たら二度と使わない。

潰し合いに全力を尽くした20代は二度と帰ってこないし、あの頃口に入れたものは全てトイレに吐いて、後に残るものは何もなかったかもしれないけれど、それでも全力で遊んだ時期があったおかげで、大人になってからは遊び自体に未練はない。

令和

新しい時代が始まる。
昭和天皇が崩御し自粛モードでスタートした平成と違い、国中が祝福する形で令和を迎える。

日本の経済は既に崖っぷちと言っていいところまで追い込まれ、新聞には日々「45歳以上、リストラ」の文字が踊る。
明るく始まる暗い時代だ。

しかし平成が始まった頃。
日本が絶頂にいたあの頃、平成の終わりの今の日本を想像できた人が誰もいなかったように、令和が始まる今、僕たちが想像している日本の未来が暗いものになるとは限らない。

どうせ未来はわからないのだ。

今を明るく生きていくしかない。

平成の真ん中で、モーニング娘。と呼ばれるグループが「日本の未来はWow Wow Wow Wow」と歌った。

「どんなに不景気だって恋はインフレーション」
「日本の未来はWow Wow Wow Wow 世界が羨む」

という歌詞は正直意味不明だが、不景気の真ん中で日本の未来を歌う「LOVEマシーン」を聞いて、なんだかほっとした。

この勢いを令和に持っていきたいものだ。