【書評】「司馬遼太郎」で学ぶ日本史



『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』を著した磯田道史先生は、2003年に『武士の家計簿』で大ヒットした歴史学者です。
この本からは「司馬小説の読み方」を学ぶことができます。

もちろん、『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』を読まずとも司馬遼太郎さんの小説を楽しむことはできます。

司馬さんが描く人物を通じてその時代の空気を感じ取り、その時代に生きた気にさせてくれます。
歴史上の人物の人生に入り込み、追体験することが、自分の人生観を育むきっかけにもなります。

司馬遼太郎さんの作品は人の人生を変えるほどの影響力を持ちうるもので、別の言い方をすると読者を没入させるものでもあります。
そんな司馬作品をひとつ上の視点から俯瞰して、

「司馬さんは何を考えていたのか」
「司馬さんはなぜ、あの人物を取り上げ、あの場面を描いたのか」

などを考察しているのが『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』です。

たとえば「なぜ脇役・敗者を描くのか」の項では、司馬遼太郎さんが好んで取り上げる人物の3つの特徴について語っています。

  • その人物に焦点を当てることで、時代の大きな流れを描ける人物
  • 読者の共感が得られる人物
  • その人物について語る史料が残っていること

などです。

勝者だけに焦点を当てるのではなく、河井継之助や土方歳三など、時代を動かす可能性があった敗者側の人物をも取り上げています。
滅びていく社会体制側の視点も描いているのです。

こんな感じで、司馬作品を俯瞰して、彼が何を伝えたかったのかを考察しているのが『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』です。

「これを読めば日本史の勉強になるか」

と言われるとさすがにNOと言わざるを得ないのですが、司馬遼太郎作品を読むための案内にはなるのではないでしょうか。

司馬遼太郎さんの創作の原点

司馬さんは悲惨な戦争体験から、「なぜ日本は失敗したのか」「なぜ日本陸軍は異常な組織になってしまったのか」をずっと考え続けた人でした。
なぜ当時の陸軍では不合理がまかり通ったのか。

敵味方の戦車や軍艦の性能を比較して論じるのではなく、「精神力で突撃せよ」という非合理な精神論で戦車に乗せられる。
日本は神の国だという「神州不滅」とか、七回生まれ変わっても国に尽くすという「七生報国」などという思想によって散々苦しめられてきた。くだらない精神論で多くの日本人が死んでしまった。

なぜなのか。

「深く考えない」という日本的習慣はなぜ成立するのか
明治時代の日本の軍隊は常に新しい、強力な武器を持って相手を圧倒する精神があったかもしれないのに、いつから日本はそのような国になってしまったのか。

これらの問いこそが、司馬さんの創作活動の原点でした。

奇跡とも呼べる明治維新から、坂の上の雲を目指して駆け上がった明治時代。
その後日露戦争の勝利によって傲慢になった日本人は、その傲慢さを捨てきれないまま暗黒の昭和に突入していきます。


司馬遼太郎さんのエッセイである『この国のかたち』では、昭和について以下のように語っています。

「昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった」

「日本という国の森に、大正末年、昭和元年くらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。
その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした」


そんないびつな時代を生きた、いや生きることを強制された司馬さんだからこそ、合理的なキャラクターを主人公として描くことが多いのかもしれません。

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日本人の前例主義

司馬さんが描いた歴史の姿が完全に過去のものであるようには思えません。
高度成長期を経て、「勝ち味」を経験した日本人には、非合理的な所作が再び根付いていっているように感じます。

日本人は前例にとらわれやすい「経路依存症」を持っています。
「合理主義」の対局にある日本人の性質です。

一度勝ちパターンを経験してしまうと、なかなかその発想から抜けられず、どうしようもなくなるところまで突っ走ってしまうのです。

2019年現在、中高年のリストラの嵐が吹き荒れ、巷では終身雇用が崩壊したとか、年功序列は不可能だとか散々議論されていますが、日本人の前例主義・精神主義が行き着くところまでいって、にっちもさっちもいかない状況に追いやられつつあるのが今なのではないでしょうか。

まさに「歴史は繰り返す」というやつで、司馬作品を読む意味はここにあるとも思っています。

先例を学び、教訓を得る。
過去の事例を自分の行動指針とする。

一般人にとっては歴史の教科書から教訓を得ることは難しいですが、司馬遼太郎の目を通して見た歴史から得られる示唆はたくさんあります。

もちろん、司馬作品はあくまで小説だから現実とは違う、という意見もあります。
それでも、膨大な史料を通じて何千人という人間を見つめてきた司馬遼太郎さんの「史観」から得られる教訓は多いと考えています。

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司馬リテラシー

『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』では、司馬遼太郎さんの膨大な作品をピックアップしながら、「歴史の中での日本人」について考えていきます。

この本を通じて読者が得られるものは「司馬リテラシー」です。
司馬遼太郎さんは歴史上の人物を明確に評価します。

「二流の人物である」
「無能であると言ってよかった」

などと小説の中で明確な役割を持ちます。
中でも糞味噌に言われたのが明治期の陸軍大将の乃木希典でしょう。

「日本兵は自分の死が勝利への道につながったものであると信じ、勇敢に前進し、犬のように撃ち殺された。
かれら死者たちのせめてもの幸福は、自分たちが生死をあずけている乃木軍司令部が世界戦史にもまれにみる無能司令部であることを知らなかったことであろう」

どのような人物にも良い面もあれば悪い面もあります。
しかし司馬小説では、無能な人物はあくまで無能のまま、物語は進んでいきます。
そういう役割を持たされているのです。

僕が司馬遼太郎作品を読み始めたきっかけ

司馬遼太郎さんの存在を知らない人はほとんどいないでしょう。
日本でいちばん有名な歴史小説家です。

僕も高校生の頃から司馬遼太郎さんの存在は知っていましたが、実際に小説を読んだのは就活が終わってからでした。

司馬遼太郎さんが39歳の頃に書き始めた『竜馬がゆく』は国民的ヒット作品です。
興味を持ったことがある人はたくさんいると思いますが、なんてったって長い。全部で8巻もあります。

司馬遼太郎さんの作品を読んだことがある人は

「長くても読む価値はある。そしてほとんどの司馬小説は尻上がりに面白くなっていく」

ということがわかっているので、長くても気にせず読み進めていくことができます。
しかし一度も読んだことのない人にとって、全8巻の長編小説を読み始めるのはけっこうな覚悟を必要とするのではないでしょうか。

僕は就活のときに、会社説明会でソフトバンクの孫正義社長が

「僕の人生は『竜馬がゆく』に出会って変わりました」

と話していたことをきっかけに、司馬小説にデビューしました。
就活時代は人生で最も意識が高くなる時期でしょう。

そんな時期に『竜馬がゆく』を読んでしまったものだから、僕の意識は天よりも高くなりました。
実力はありません。

「男なら、たとえ、溝の中でも前のめりで死ね」

などと意気込み、天より高い意識で就活を駆け抜け、一次面接で次々と撃沈していくのでした。

「意識が高いだけではダメ」という司馬作品から得られる教訓を何も活かせていなかったということです。

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)

「司馬?太郎」で学ぶ日本史 (NHK出版新書 517)